あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

生きている実感と孤独感

自傷行為について】

自傷行為は、一般的に知られているものだと
リストカットや、大量服薬なんかがあります。


今日はこの二つの事についてではなくて、一般的な人が「自傷行為」と認識していないけど、ある一定を越えると自傷行為になる事柄について書きたいと思います。


割と、自傷行為だと認識されていないのが、「過食症」と「拒食症」が代表的かもしれません。


どちらも病気としては認識されていますが、病気を体験した私としては、完全な病気となるまでに達しなくても、メンタルを病んで、過食症になり気味の人や、拒食症になり気味の人が結構います。


私も、完全なる過食症になる前に過食症気味に食べてしまう現象が起きて、2年ほどで45キロ増えてしまいました。
それでも、過食に対する何かしらの治療はとくにはありませんでした。


食欲を抑えるケミカルな薬は存在はしているものの、とてつもなく効力が強く、食欲を抑えはしますが、副作用として幻覚や幻聴症状が出てしまうらしくて、主治医が出さなかったのでした。


また、拒食の場合は周りも心配はしますが、過食はどちらかといえば、周りの心配もなく、どちらかと言えばなんか貶されたり、諭されたり、マイナスな感情を相手に抱かせてしまうようで、、、


私自身は母親が妹に「あの人の餌を買わなきゃいけないの、本当やんなる。。。ぶくぶく太るし、お金の無駄ね」と言っているのを聞いてしまってからものすごく悲しく感じて辞めたいけど、食べるのを止められなくて、もっと苦しくなる上に自己嫌悪に陥るという負のループがとても重くのしかかって抜け出すのが大変だった苦い思い出があります。


食べることは元々好きでしたし、作ることも好きでした。
なので、お金がなくても何かしら家にある材料で作れるものを考えて作って食べてしまっていました。


しかし、過食になって食べる食事はどんなに食べることが好きな人間でも、段々と苦痛になって、食べたくないのに、食べないと脳みそが満足せず、孤独感がジワジワと黒い影のように周りを取り囲み、怖くて怖くて、そこから逃げるために何かを食べて、安心感に包まれてやっと眠れる。。。


そんな繰り返しから、脳みその中で
「食べる→安心して眠れる」の図が出来てしまって、食べても眠れないと、脳みそが「食べる量が足りないんだ!」と勘違いして、内臓的には限界なのに、食べないと耐えられない状況に陥って食べ過ぎてしまい、あまりにも限界を越えると内臓が悲鳴をあげて嘔吐してしまうんですね。


なので、ある程度、胃腸が丈夫な人は「もったいない」という思いもあるので、なるべく吐かないようにするため、どんどん太ってしまう。。。


お腹はいっぱいのはずで、苦しいのに脳みそではブラックホールのように空腹を感じて、とにかく食べまくる。。。


それは、見ていてもいい気持ちはしないでしょうが、食べている本人はもっと辛いです。
自分が大好きな事をしているはずなのに、苦痛な上に、食べても食べても満たされないのです。


拒食症はその反対で食べられなくなる事です。
太り気味の人や、過食気味だった人が食べられなくなると、周りは「痩せるからいいんじゃない?健康にもなるだろうし」とこれまた余り心配されませんが、過食も拒食も進みぎると、どちらも骨と皮だけみたいな体型になり、生命の維持が難しくなるので、食欲が異常になった場合には周りは割と深刻に考えてあげたほうがいいかもしれません。


過食は、症状が進みすぎると、食べる量がおかしくなるので、内臓が対応できなくなって、最終的には必ず食べた後に嘔吐するようになってしまいます。
なので、過食症があまりに進みすぎた人は、拒食症の人と同じように、ガリガリになってしまいます。


拒食症の人は、食べる事そのものが怖くて食べられても裏でこっそり吐いている事も多々あります。


「吐く」という行為は、全身にものすごく力が入って、涙も鼻水も出るし、何より胃酸で歯が溶け出してしまいます。
そして、食道も酸にやられるので、最終的には別の病気も併発してしまいます。


歯は確実にボロボロになりますし、吐けば栄養が吸収されないと思って吐いて安心する患者さんはおおいですが、実は食べ物は口に含んだ時点で口の中の粘膜が吸収してしまっているので、勿論最終的に全部食べるのとは同じように太らなくても、本人が望んでいるようなプラマイゼロには決してなりません。


どちらにしても、行きすぎた行為は自分を傷めつけているのと変わりがないのです。


私はリストカッターでも、プチオーバードーズ者でもないので、それをした時の感じはあまりわかりませんが、どちらの自傷行為も経験している友人はいます。
リストカッターの人達が口を揃えて言うのは、何処かを切って血を見ると「自分は生きているんだなぁ」と生きている自分を感じるために切るのだと言っていました。


中には本気で死を考えて切る人も居るみたいですが、殆どのリストカッターの子達は本気で生き死に云々というよりかは、自分が生きているという事実の確認のために切るようです。


プチオーバードーズの人はお薬で頭がボンヤリとして、朦朧とした感覚を楽しみたい部分もあるようです。
(あくまでも個人的な感想です)


例えば人によって行きすぎた行為は様々な形を持って現れます。


それは、出会い系を利用して毎日知らない人と肉体関係を持つ人もいれば、身体中にボディピアスを開けまくる人もいれば、身体中に刺青をする人もいれば、異常な程に手を洗わないと気が済まなかったり。。。


潔癖症も行き過ぎるとそれは自分を傷つける行為になるのです。


わりとその事に気付かずに
あの子はフシダラだ
とか
ゴツい趣味だよね
とか
綺麗好きなのかな?
とか
割とそれぞれの行動が
自傷行為」とは受け取られずに見過ごされている事がおおいように思います。


毎晩取っ替え引っ替え、いろんな異性と肉体関係を持つ女の子に話を聞いたときは
「そうでもしないと誰かに必要とされている感じがしなくて、死にたくなるから」
という答えが返ってきました。


ボディピアスや、行きすぎた刺青やタトゥーを入れる人は、もうなんだか入れないと気が狂いそうになるから。。
という答えでした。


潔癖が行きすぎた子は周りが止めても、手が乾燥しすぎてあかぎれが切れて、流血しまくっても、何かしら汚い気がして手を洗うのをもう自分では止められないと言ってました。


ある程度元々の性格の傾向もあるとは思いますが、やはり周りから見ても行きすぎた食欲や、性行為、潔癖行動なんかは、何かしら、どこかしら心や体がSOSを出している事がおおいので、そういう人が側にいたら、助けてあげて欲しいのです。


私の場合はその時に飲んでいた睡眠薬があっておらず、そして、病気の原因はわかったけど、そこからどう動いていけばいいのか?
自分の家族をどう諦めたらいいのか?
その道筋が見えにくくなっていたのと、カウンセラーさんの産休や、主治医のクリニック移動による一時的な休業が重なって、余計に眠れないと焦る症状が進みすぎて、100キロ近くまで体重が膨れ上がり、しまいには食べた後に耐えられずに吐いてしまうようになったので、一時的に病院を転院して、まず、睡眠薬を変えて、少し強いものにして、強制的に眠れるようになってからは、夜の孤独感に襲われる事が少なくなったので、自動的に夜中に過食してしまう事が減ってきて、自然に15キロほど3ヶ月で体重が減りました。


そこから、カウセリングを受けたり、しつつ、少しずつ浮上して過度な過食行動には今の所至ってはいません。


女性なので、生理前などに少し食欲がおかしくなったり、ストレスを強く感じるとたくさん食べたりはしますが、過去のように食べたくないのに食べてしまう。
や 吐くほど食べてしまう。
という事はなくなりました。


わかりやすいリストカットや、プチ大量服薬ではない、行きすぎた行動を取る人は何かしらの自傷行為を本人も自傷行為と気付かずにしてしまっている事が多いので、もし、そういう人が側にいたら、その行動自体が自傷行為ということ、可能であればちゃんとした病院にかかることなどを勧めるか、ご自身の余裕があれば、たわいもない話をするなど、、、自分が振り回されない程度に側にいてあげることが大切ではないかと思います。


自傷行為をするということは、少なくとも何かしらの寂しさや、誰かに見てもらいたい気持ちや、計り知れない孤独感に押し潰されまいとして、その行為をしてしまっていることが殆どです。


その人が全く自傷行為をしなくなるように周りの人がどんなに頑張っても医療機関の人間でないと、手助けをしているつもりの人が振り回されたり、実はいらない親切で余計に自傷行為を促してしまう事もあるので、何もできない状態であれば、ただ、側にいてあげるだけでもいいと思います。
「誰もいない世界」ではなくて「誰かはいてくれる世界」という認識だけでもとてつもなくありごたく、思えるものです。


そして、最後にはやはり本人が自分の自傷行為を認めた上で、本気で病気そのものや、自傷行為と向き合わなければ中々その状態からは抜け出せないので、その事を念頭に置いて周りも側にいる必要があると思います。


どちらにしても、自傷行為をする本人も、その周りの人も、お互いにハッピーで、適切な距離感で付き合っていけるといいですね。

 

フリーダム

【男女平等について】

セクハラ問題や、パワハラ問題に溢れる今日この頃ですが、今日は私が個人的に思う「男女平等」について書こうと思います。


多くの国が「男尊女卑」がベースになっている中で「フェミニスト」と言う人もいれば、ある意味物凄くヒステリックな位に「女尊男卑」になっている人もままあります。


私がなんとなーく思う事は、どっちが優れているとか、どっちが劣っているとかという問題ではなく、また、ヒステリックなまでに「男尊女卑」や「女尊男卑」を訴えている人達の求める全くの「男女平等」というのは、難しいのでは無いだろうか?
という、感想です。


あくまでも、私個人の考えですが「男性」と「女性」ならずとも人それぞれに得意・不得意な分野もあると思うし、LGBTが叫ばれる昨今「男」と「女」の差別化でさえあやふやになりつつあるのも事実です。


ただ、単純に考えれば「男性」は「女性」より力が強かったり、スタミナが持続したりする場合もあるし、勿論その逆も然り。
「女性」だから繊細な作業が得意か?と言われれば大雑把な人だっている。
というのも事実です。
ただ「男だから、女だから」で区別するのではなくて「その時々のシーンに合わせて得意な人がその事柄をやれば良い」のであって、女だから発言しちゃいけないわけでも、男だから猛々しく振舞わなければいけないわけでもないのではないか?
そういう意味で男性であれ女性であれ、はたまたLGBTであれ、その人がその時に出来ることをしてお互いに支え合って、家庭やら会社やら政治やら国やらを運営していけばいいのでは無いか?とも思うし、その状態で初めて「お互いに平等な立場」になるのでは無いか?
と思ったのでした。


家事だって、得意な人がやれば良いし、お互いに苦手ならばまだ譲歩できる部分をお互いに出来るところをなるべくやるでもいいだろうし、もしくは、家事を自分達でしなくても良いようにめっちゃ稼いで外部の業者さんに頼む でも全く構わないと思うのです。


ただ、現時点の世の中ではベースに「男尊女卑」が根強く残っている人達が政治を動かしていたりする事や、そもそも子育てをする世代が無意識的に男尊女卑を子供に植え付けたまま育てたりしている事も多々あるので、その中で反面教師になってヒステリックなまでに「女尊男卑」を訴えたり、男性を軽蔑したり、反対に無意識的に「男尊女卑」の思考のまま育った男性が意識なく女性を軽蔑視している発言をしたり、セクハラ行為を行なっているのでは無いのだろうか。


と感じたのでした。


どちらにせよ、女性も男性もLGBTで性別がはっきりしなかったとしても、人間が人間をなんらかの理由もなく性別や分類が自分と異なるだけで軽蔑視する事が「男女平等」をどんどん遠ざけてしまっているのでは無いだろうか。
と思うのです。


「ウチの旦那ちっとも家事をしてくれない」
「家事をお願いしてもちっとも役に立たない」
それは事実かもしれません。
では、旦那さんが主夫になって、奥さんである貴方は旦那さんと同じだけの労働時間で同じだけ稼げるのか?


女性だって物凄く経営の才能がある人もいれば、会社でバリバリ仕事をこなして沢山のお給料を手にする人も勿論いるでしょう。


「ウチの嫁ちっともご飯が美味しくない」
「三食昼寝付きで良い身分だよな」
そう仰る旦那さん方もいらっしゃるでしょう。
では、そう言う旦那さん達は365日働いて帰ってくる奥さんに美味しいご飯を毎回飽きないように献立や栄養バランスや予算を考えて用意し、その間に子供の世話やその他の家事の時間配分をして家庭を回していく事が出来るのでしょうか?


男性であってもお料理が得意で家事の作業が大好きで奥さんより遥かに効率よく家庭を回せる旦那さんも勿論いると思います。


どっちの仕事も大変で、どちらだけが楽という事は無いと思います。
ただ、共働きの場合には話が変わってくるとは思いますが、往々にして奥さんの負担が多くなりがちなのは確かです。


相手を軽蔑したり、軽視したり、バカにしたりして、相手が仕事をしている。
相手が家事をしている。
その事に対して男も女も関係なく、お互いがお互いを尊敬し、感謝の気持ちをちゃんと表面化し、お互いに苦手な部分を補い合いながら一緒に居る。


そこで、初めて「平等な関係」だと思えるのでは無いか。


と、私は思うのです。

 

 

 

生まれ落ちて

【考えて欲しいこと】


今日は、本当に個人的な思いを書きたいと思います。

 


子育ては、良いことばかりではなく、むしろお母さんが孤独になりやすく、そのストレスが上手に発散することができなければ、ストレスを向けられるのが子供になりかねません。


そして、子供はしばらくは母親と自分だけの世界で生きるので、母親に責められたり、暴力を振るわれても、「ストレス」なんて言葉も存在も知らないので、どんなに理不尽であっても、外の世界を知らない限りは「自分が悪いからお母さんが怒るのだろう」と全てを自分のせいにして、ドンドン内へ篭っていってしまいます。


知り合いに、学生結婚をして居て結果三人のお子さんを設けたご家族がいました。
そのご家族はとても幸せそうで、大変な中にも、楽しい毎日を過ごして居るようでしたし、もちろん虐待なんて事は一切していませんでした。


ただ、一点気になったのは、お母さんが
「この子(一番上の子)が居なければもっと色々仕事できたのにさー」と度々子供の前で愚痴をこぼすのが気になりました。


上の子は既に小学生でしたが、その分大人の言って居ることの意味もよく理解できるようになります。
その状態で例え愚痴であっても自分の目の前で自分が生まれて来なければもっと楽しめたのに。。。。というような発言をされて喜ぶと思いますか?


私がとても不思議に思うのは、彼女たちは合意の上で性交渉をしているという事。
そして、性交渉をしている時の年齢は確実に避妊方法を学校で教えてくれて居た年齢よりも上だったという事です。


性交渉を拒むことも、避妊具を購入する事も、不当に妊娠したとしてもその後最悪中絶する事もできたはずなのに、それを一切せずに、産んでから生まれてきた子供に対して文句を言うのです。


よく、中絶は残酷だという方や、宗教的にできない方もいますし、考え方は人それぞれですが、この世に生まれ落ちる前に絶命するのと、一個人として存在しているのに、その人権を踏みにじられながら生き地獄を生きていくのはどちらが残酷なのでしょう?


私は流産の他に、望まずに妊娠してしまったことが一度あります。


その時はメンタルの病気もMAXで酷くて、年齢的にも30歳手前で、子供を産むのには多分最適な年齢ではあったと思いますが、メンタルを病んでいて、半ばレイプのように当時の彼氏に犯されたのちの子供をその彼氏と産み育てる自信もありませんでしたし、暴力を振るう彼から子供を守れる自信もありませんでした。
何より当時は生活保護での生活で、その状態で妊娠と出産をして1人で生活を立て直して生きていく選択すら選べないほどにメンタルもボロボロでした。


なので、当時の彼氏にお金を工面してもらって中絶を選択しました。


それでも、私はそのことについて、今は良かったと思っています。
私と同じように
「生まれて来なければよかった」と思いながら生きていく子供が増えて欲しくないのです。


増してや、自分が親からそういう扱いを受けた事によって自分が病で苦しんでいるのに、その思いを自分で自分の子供にしてしまうかもしれない。。というのは本当に嫌でした。


そして、多分今はいろんな事がわかってきて、良かったと思っていますが、妊娠してしまったあの頃の私の状態ではまだ悲劇のヒロイン気質が抜けていなくて、確実に自分の子供に対して、異常な愛情か、もしくは、私の母親のように愛情があるんだか、ないんだか、子供にわからない状態で接して育ててしまっていたであろうと、安易に想像がつきます。


今はアフターモーニングピルというものもありますし、最悪、婦人科で膣洗浄ということをする事もできますし、ピルやコンドームももちろんあります。


結婚したら子供を生むのが当たり前という時代はだいぶ通り過ぎましたが、地域や、親御さんによってはそういう考え方の強い地域も、そして、周りもそういう接し方をしてしまう人も悪意なくいたりします。


でも、望まれずに産んだ子供達は必ずその思いを感じて、親子関係にヒビが入ってしまいます。
もちろん産んだら可愛くて愛情溢れる家庭を築いていけるケースもあると思いますが、それは残念ながらごく少数です。
そして、子育てはそんなに楽しいことばかりではなく、ほぼ9割型辛いことが妊娠時から多くて、思うように子供は育たず、残りの1割の喜びが今までの苦しみを吹き飛ばすほどの威力があるからこそ、育てられるのだと周りを見ていてつくづく思います。


私は子供を妊娠したことはありますが、産み育てたことは残念ながらありません。
ただ、三時間おきの授乳を生まれたてのネコを拾ったのでした事があります。
あれは、やっぱりとてつもなく大変でした。
猫と赤ちゃんを同じにするなと怒られるかもしれませんが、私が経験できた母親らしい経験はそれだけです。
たったそれだけでもとてつもなく大変だったのに、実際の子供だとしたら、段々大きくなって、言葉も通じるようになって、意思疎通ができない時期もあって。。。と、とてつもなく大変だと思います。


だからこそ、愛しさや、楽しみもあるでしょう。但し、それ以上に大変さも沢山あることを忘れずに、そしていっ時の快楽の為だけに体を犠牲にしないでください。


中絶手術も流産の手術もする事は全く同じで、全身麻酔で、子宮の中をかきだします。
その前日には子宮の中に膨らむ海藻の棒見たいなやつを入れておいて、時間をかけてムリクリ子宮口を、開きます。
もちろん、海藻の棒を入れる際は麻酔なんかありません。
とてつもなく痛いです。
全身麻酔なので、最悪命を落とす場合もあります。


どう考えても、身体に良い手術でない事は明らかです。


彼氏が避妊してくれないから。。
それならば、拒むか別れるかした方がいいです。


そんな人と健全な子育てなんてきっとできないはずです。


私のように、残念ながら暴力的に妊娠してしまう人もいると思います。


そんな相手の子供を産み育てるのは多分並大抵のことではやり遂げられないと思います。


どうか、子供を産み育てる前に、自分は育てられるのか?
相手と性交渉をする前に、避妊しなかった場合の最悪のケースが降りかかってもちゃんと対処できるのか。


それを念頭に置いてから、産み育てて下さい。


生まれる前に殺してしまうのは確かに残酷だと思います。
でも、生まれ落ちてから、人権や個人を踏み潰されながら生きていくのはもっと辛く、悲しい事だと私は思って居ます。


産んだ責任をちゃんと取るというのは、金銭だけで子供を育てるだけではなく、心の扶養もちゃんとしてあげて初めて親なんだと私は思います。


その上での「親としての責任」をちゃんと果たしてあげてくだい。

 

 

 

 

お母さんと孤独

【妊娠・出産と社会との関わりについて】

私は出産した事はありませんが、周りに妊娠・出産をして子育てをしている友人は割といます。


世間的には、「既婚者 子持ち」と「独身者 キャリア」は割と仲が悪く書かれたり、相性が悪く書かれたりする事が多く、その文章や、双方の話を聞けば、わからなくもない意見も勿論多々あります。


今回はそちらへの掘り下げは行わず、子供を身篭ってから、出産を経て、子育てをしている女性と話していた時に私が気がついた事を書いていきたいと思います。


あくまでも、私が感じた事なので、全ての方に当てはまるわけでもないですし、違う意見の人もいると思います。


私が彼女たちと触れ合っていて感じたのは、妊娠時もものすごく大変なのは言うまでもないのですが、出産後の大変さの壮絶さとか、出産後の彼女たちと会ったり、話したり、メールして感じた事と、思った事を、今日はまとめていきます。


私が思ったのは、社会的に、「妊娠時」はお腹が出てきたり「見てわかる変化」があるので、周りもそれなりに気を使い、「妊婦ビジネス」も最近は盛んになってきて、世間的にも少しずつ「妊婦さん」の扱いが昔に比べれば少しは改善された部分もあったり、使い勝手の楽なグッズが出たりと僅かではありますが、ほんの少しは過ごしやすくなってきたり、周りの理解も少しは得やすくなってきているように個人的には感じます。


身近な妊婦さんを見ていて、出産後の彼女たちと決定的に違うのは、情報収集力の違いでしょうか?


妊婦さんは身体的にはとても苦しいですし、色んな不自由も生じて、どんなに便利なグッズが出来たとしても、本調子で快適!ってほどに調子が良いのか?って、聞かれればそうではないと思います。


ただ、仕事や家事に追われていたとしても、以前とは違うペースであったとしても行動する事柄を「自分のペース」で動ける。
故に、妊婦さんにどんな食べ物がいいのか?
とか
どんな環境がいいのか?
とか
どんなグッズが便利なのか?
とか、、、
スマートフォンや、インターネットや、雑誌なんかで、妊婦が色んな世間の情報を集める事が自らの手でできる事。


子供を出産してからの彼女達との違いはこの部分ではないだろうか?
と私は感じます。


子供が生まれると、まず、自分のペースで何かを行う事は出来ません。


全てが赤ちゃんとそして旦那さんのペースで日常が進んでいき、世間もそれを当然としてみている部分もありますし、むしろ母親である彼女達が赤ちゃんのペースではなく、彼女自身のペースで何かを行おうとしたら、白い目で見られる。。なんて事も多くあると思います。


そんな、「自分」のペースではなく全てが「自分ではない誰か」のペースで進んでいく生活の中で、産後の体力や、身体的な変化等にも驚きながら、言葉の全く通じないそれも理不尽な要求ばかりされ、そして、それに対して不当を訴えても本人はおろか、周りにも理解が得られない状況下だと、彼女達は「何かを調べる」「何かの情報を得る」という場面からとてつもなく、遠い場所。
に置かれます。


「え?スマホで調べればえーやん」って思うとおっしゃる方もいると思います。


24時間稼働で、赤ちゃんが寝てる時間は家事に当て、そして、細切れの睡眠時間なので母親自身も寝ないとお乳も出なくなりますし、家も何もしないわけにはいかないので、ある程度は荒れ放題でも、旦那さんや自分のご飯を作ったり、洗濯物をするわけです。
そして、睡眠時間は三時間おきくらいしかない。。。
そんな状況下で、貴方は何かを調べようという気力が湧きますか?


という事なのです。


例え調べられたとしても、必要に迫られた、今晩の献立。
とか
どこのスーパーが安いかのチラシ
とか
純粋に彼女だけが欲しい情報を調べる。
集める。何かを得る。
なんて時間が無いわけです。


私が彼女たちと会うという時間を設ける時に、衝撃的に感じたのは、子育てに忙しすぎて、suicaPASMOの存在や、購入の仕方を知らなかった事。


寝ている乳幼児を抱っこしたまま、切符買うの大変なんだよ!って怒られた時でした。


私が「suicaは?」
って言ったら
「え?何それ?どこで買うの?」
と聞かれたのです。
その会話をしたのがsuicaが導入されたばかりでも全くなく、既に私達が30を過ぎていた頃の話なので、コンビニでも当たり前にレジでsuicaなどの決済が出来た時期です。


その時に彼女は、suicaの存在は知っていても、
それを自分が利用して電車に乗る。
例えばどこで買って、いつチャージできるのか?
なんかの知識を得る場所がなかったのです。


赤ちゃん生みたてのお母さんは電車とか乗らないもんね。
って言う方もいると思いますが、彼女は毎月病院にバスや電車を乗り継いで通っていたのです。


娘ちゃんは既に3歳でした。


彼女は、たぶんsuicaを利用して改札を通っていたり、バスに乗る人たちを横目で見ていた筈なのです。
でも、それが何なのか?
自分も使えるものなのか?
そういう情報を耳に入れる場所が子供を育てる事に必死すぎて、情報を得る場所も、調べる事も、そのもの自体を知る機会すら、余裕がなくなっていて、何もできなかったのです。


そして、彼女達を養っている旦那さんは奥さんがそんなに世間の情報から遠ざかった状態で子育てをし、家事をしているなんて、考えても勿論いないので、教える事すらもない。。。


その間彼女は、幼い子供を連れて毎月遠くの病院まで、切符を買う時にとても苦労しながら子供が生まれてから3年もの間一人で頑張って通っていたわけです。


毎日睡眠不足で、やる事満載でBGMのように流しているニュースやワイドショーの内容なんて、頭に入るわけもなく、ましてや自分の時間も無ければ、インターネットで何かの最新情報を読むわけでも無ければ、子供や家庭のためになる情報意外に何かを特別に調べたりする機会はとても減ります。


特に専業主婦の人は外部の人と接する時間が極端に減るので、働いているお母さん達より余計に何かの情報や、外部の人と接したり、触れたりする時間がほぼゼロになるわけです。


もちろん、働いているお母さん達の方が時間がない!っていう事実もあります。
ただ、赤ちゃんと接していない時間は専業主婦のお母さんより数時間は確保されるわけです。


自分が自由に使える時間 は確かに働いているお母さん達は減るとは思います。
ただ、そういうお母さん達に見られるのは、
「限られた時間をいかに有効利用するか」
ということを身につけている。


自分に使う時間はなくても、家族に使う時間も限られてはいるので、家事をいかに効率的に週末だけですませるか?
とか、時間的にどういうローテーションで子供のお迎えからお風呂夕飯作りまで頭の中で考えたりもします。


そして、働いているお母さん達には何より、家庭の人以外のアルバイトや、パート仲間や、仕事場のボスやら、、、接客業ならばお客様とか、とにかく家の中の人以外との接する時間があるわけです。


仕事をしていても、理不尽な理由で手を止めなければいけない事ももちろんありますが、子供のように言葉も通じない相手にいきなり脈略もなく、全ての予定が潰されるという事は、稀にあるかもしれませんが、仕事においては、おそらく毎日そういう状況に置かれる事は少ないように思います。


子供と触れ合っていない時間をもって、何かしら自分で行っている。
という時間はとても大切なように思います。


もちろん、仕事をしていても
「◯◯ちゃんの、お母さん」と言われる仕事先もあるとは思いますが、基本的には「彼女自身」として扱われる職場が多いと思います。


勿論、自分だけの時間は少ないのですが、周りに目を向ける時間を持つ。
という意味ではおそらく働いているお母さん達の方が多いように思います。
それはやはり、家庭内だけの世界に留まらない時間がほんの少しでもあるからではないでしょうか?


自分の視野や、世界を広げる事は「お母さん達」に限った事ではなくて、全ての人に大切な事に思っていますが、家庭内だけの生活をしているお母さんになったお友達は「自分が世間から取り残される不安感」と「自分が自分でなくなる不安感」と常に隣合わせの世界で、でも、忙しくて、視野をどうやって広げていいのかもわからず、不安感だけが取り巻く。。。
という人が多いように思います。


でも、それは彼女達が悪いわけでもなんでもなくて、むしろ周りがサポートして、一緒に子育てをしていく事が大切ではないのではないか?と私は感じています。


子供が生まれる事によって、仕事にやる気が出て、仕事をバリバリ頑張るお父さんもいます。
勿論お仕事をしてくれなければ、家庭は成り立たないので大切ですが、子供を育てるのはお母さん一人ではないはずなのに、作るときは二人だけど育てるときは1人。
という家庭が少なくありません。


別に今もてはやされている
イクメン」になる必要はありませんが、
私が思うのは、そういうお母さん達が
とてつもない「孤独」を抱えている事が多いのです。


子供にも恵まれて、旦那さんはお仕事もバリバリ忙しくて、、、
多分周りから見たらとても羨ましがられたり、羨望の眼差しで見られる状況かもしれまさんが、彼女達は誰よりも孤独で、たった1人で生活しているのです。


でも、周りからはその孤独は理解されないので、誰にも話せない。
でも、自分が自分ではない人間になっていくような気がする恐怖はなくならない。


そんな風に周りで見ていた私には映りました。


お友達でできる事は限られています。
会っている数時間だけ子供と遊ぶ。
彼女達の話を聞く。
彼女達が普段入るのを躊躇うようなお店に連れて行く。


お友達でできるのはせいぜい「数時間の気分転換」それだけです。


やはり、家族や、一番近くにいる旦那さん達のサポートが無ければ、彼女達の孤独はどんどん深まっていくと思います。


あまりに孤独が深まればそれはもう「数時間の気分転換」では晴れる事はなくなり、カウンセリングや、心療内科などの専門機関に行かないと永遠に闇の中を彷徨ってしまって、日常生活が送れないレベルになってしまう事も多々あります。


子供が生まれて、家族が増えるのは望んでいた夫婦であれば喜ばしく、周りにも祝福される嬉しい事のはずなのに、いつの間にか日常生活が送れなくなるほどに精神が破綻してしまったら、これほど悲しい事はありません。


そして、そんな苦しんでいるお母さん達を見て、子供達はもっと深い闇に足を踏み入れてしまう事もあるわけです。


そんな悲しいループが永遠に続いてしまったらこんなに悲しい事はありません。


私はお友達として、できる限りの事をできるように心がけるしかできませんが、もし、周りにそういうお母さん達が居たら、闇や孤独が深まる前に、お友達であれば、お友達でできる範囲の事を、家族であれば家族でできる事を、旦那さんであれば旦那さんでできる事を、是非してあげてくだい。


何にも特別な事はしなくていいのです。
数時間子供を見ていて、お母さんがゆっくり1人で、昼寝をする。
ゆっくり1人で、お気に入りのDVDを見る。
ゆっくり1人でリビングでコーヒーを飲む。
ゆっくり1人もしくはお友達とお茶に行く。
ゆっくり1人で本を読む。
ゆっくり友達と電話をする。


子供を寝かしつけた後に
旦那さんとゆっくり話をする。


たったそれだけでも、お母さん達の孤独感が少しは薄れます。


私にはできる事が少なく、そして、女性ならではの「もう私には産めない」「羨ましい」という、気持ちももちろん入り混じってしまう事もあります。


何より、2人で子供が欲しいと願って作ったのだから、たった1人ぼっちで子供を育てさせようとせず、お父さん達が稼ぐ以外に何をしたらいいのか分からなければ、ただ、奥さんの話を聞いてあげる時間を設けるだけでも違ってくると思います。


お母さん達が笑顔で、健康に子育てを出来たら、それはゆくゆくは、そのお母さん達に育てられた子供達も健康に育っていくという事です。


お母さん達が孤独で、闇をどんどん深めながら育てられたとしたら、それは、子供は必ず空気を読み取ります。
それは悲しい事にそのうちの何人かは、いつかこころを病んでしまう可能性があるという事です。


自分の子供が鬱病でもしくは何かしらのメンタルの病で苦しむ事を望む親がいるでしょうか?


私が思うのは、お母さん達もお父さん達も、そして将来大人になるであろう子供達も、生きていく上でのいくつかの問題を乗り越えて、それでも、たった1人ぼっちという気持ちを味わう事なく、生きていって欲しいという事です。

 

デリケート

【婦人科について】

今日はメンタルと直接的な関係があるわけではありませんが、女性にとって大切な「婦人科」について書きたいと思います。


私は昔から生理痛がとてつもなく酷く重く、時には歩くのも辛いくらいに痛い時もありました。


しかし、母親曰く「若い頃はホルモンバランスが乱れているし、自分の友人でもっと酷い人も居たから大丈夫」という方針であまりきちんと婦人科に行ったことはありませんでした。


特に、婦人科系の病気は内臓の裏側などに嚢腫が出来る事が多くて、エコーや内診ではわからない事も多かったのと、昔の婦人科の方針として「子供を産めば治る」という風潮があり、私も余りにも痛くて苦しかった高校一年生の時に、初めて婦人科にかかった時には鎮痛剤すら処方されずに「子供を産めば治る」と痛い内診をしたのにも関わらず言われ、唖然とした事がありました。


結局、20代前半に子宮内膜症が判明して半年飲み薬のホルモン治療を行いました。


それによってやっとわかったのですが、何故婦人科の医師たちが口を揃えて「妊娠すれば治る」と言ったのは妊娠をすると当然生理が止まるため、その間に婦人科系の病気が軽減する場合があるからです。
婦人科系の病気は殆どの物が生理の時に一緒に炎症を起こして、段々と悪化していくので、生理が止まる事によって、悪化するタイミングがなくなり、軽いものであれば、特に何もしなくても出産後気にならなくなる場合があるからだと言う事でした。


ホルモン治療は人工的に仮閉経状態を作り出し、最長で半年間生理を止めて、腫瘍やらが小さくならないかを試みる治療法です。


私はホルモン治療をする前までは子宮内膜症による子宮と卵巣の癒着が酷く、99.9%妊娠は出来ませんと宣言されましたが、結局のところ、妊娠しました。(その後流産していますが)


また、ホルモン治療を一度すれば完治するというものでもなく、例え、腫瘍だけを取り除く手術をしたとしても、婦人科系の病気はとても再発しやすく、クリアな期間は手術やホルモン治療が終了してから2年ほどしかないそうです。


私はその後30歳の時に子宮筋腫になり、半年間ホルモン注射でのホルモン治療を行いましたが、結局筋腫がりんご大に大きくなったのと、内膜症の再発に加え、卵巣嚢腫も併発したため、腫瘍・筋腫のみを、取り除く手術を行いました。


再発のサインとしては個人差もあると思いますが、異常な生理痛の他に、生理でもないのに生理痛のような下腹部痛が強くするというものが分かりやすいかと思います。
ただ、あまりにも腫瘍や筋腫が小さければ婦人科ではあまり、具体的な治療は行わず、経過観察を重ねてあまりにも大きくなりすぎたり、妊娠計画がうまく進まない場合や将来的に妊娠したい場合には子宮や卵巣は残したままでの治療を進める事が主体です。


婦人科にかかる時に大切なのは、生理周期を自分で過去3ヶ月間くらいは把握しておくこと。
脱ぎ着しやすいボトムスを選ぶ事、万が一内診で出血した場合用に生理用ナプキンを用意しておく事くらいでしょうか。


内診は担当医師の熟練度や、その時々の自分のコンディションにもよりますが、痛いですし、もちろんいい気分はしません。
ただ、恥ずかしいなどの理由や、面倒臭いという理由であまりにも自分の婦人科系臓器への知識がなさすぎると、イザ結婚して子作りをしたいなんて時に何度トライしてもちっとも子供ができないと思っていたら実は婦人科系の病気だったなんて、事になりかねません。
婦人科系の病気は妊娠しにくくなりやすいそうです。


良い婦人科系の医師を探すのは至難の技ではありますが、口コミ掲示板的なものも昨今たくさん存在するので、そういう場所で確かめるか、もしくは友人などで婦人科にかかった事のある人に評判を聞くのがいいかもしれません。


ただ、注意点がひとつだけあり、産科の評判は上々の医師でも、婦人科はイマヒトツという事がある事を覚えておいてください。


どちらにしても内診や、色んな問診などで不愉快な思いをするのであれば、すこしでもストレスを軽減するためにそれ以上の不快感を味合わない為にもある程度の自分の生理周期位は把握しておくのがオススメです。


そして、いつか妊娠をしたり、はたまた、更年期を迎える頃にある程度の自分の婦人科系臓器の把握が出来ていると何かしらの不調が出た時に、すぐに対応が出来て安心です。


特にホルモンバランスに関わる月経前症候群(PMS)や、更年期症候群は身体的不調だけではなく、鬱のように気分が落ち込んだり、不眠になったりもするので、生理周期や、自分の行動パターンなどに当てはめて、メンタル的な病なのか、それとも婦人科系的な不調なのかによっても受診する科を適切にかかる事が出来て、たらい回しにされる事も減ってくるように思います。


何よりも、きちんと自分のコンディションを把握して都度メンテナンスをしておく事によって結果的に自分が楽になるように、私は感じています。

信頼とは

【信じること】

今日は、私が母に対して違和感を感じたことについて書きたいと思います。


私は、生理痛がとてつもなく重かったり、様々なものにかぶれやすかったり、少し厄介な体質でした。


そんな時にお腹が痛い
とか
皮膚がかぶれて痒い
とか
一番最初に訴えるのはやはり母親に対してでした。


その時に母親からの返事はどんなことに対しても
「もっと大変な人はいる」「きっと貴方のは大したことない」
という返答で、胃痙攣を起こしても、救急車を呼んだりすることもなく、階段から落ちて歩けないと訴えても、病院まで歩けという母親でした。


結局のところ、足は骨折していて、ギブスがはめられましたし、生理痛は婦人科系の病気で、不妊気味と診断され、生理痛が酷すぎてなんとか病院に連れて行ってもらえた時は、医師に母親が「なぜ、こんなにひどくなるまで放置していたのですか?」
と聞かれる始末でした。


母親は未だに私が何か不調だったりで何かのお願いごとをした時に、まずそれを信じない
という特徴があることに気づいたのでした。


一番幼い頃から傍にいる人に信頼されないというのは、その後の人間関係を作っていく上でとてつもない、影響力があるように思えます。


結局私は今現時点では母親に触られたり、あまりにも近くに座られたりすると、哀しいかな、、蕁麻疹や湿疹が出てくるようになってしまいました。
もう、それは何か苦手意識が強いという類のものではなくて、無意識的にだと思います。


病気になって10年目くらいの時に祖母宅の掃除に母親と一緒に行った時に「過呼吸が起きそうだから、帰宅したい」
と母親に言ったら、熱を測ろうとした母親に私がとてつもなくビックリしてから母親に近くに居られると身体に異変が起きるようになりましたが、、、過呼吸はご存知の方も多いと思いますが、発熱等は通常の場合ほぼ関係なく、ビニール袋を口元に当てて、呼吸を整えるというのが、基本的な解決法です。
確かに親の前であまりそういう発作的なものを起こしたことはありませんが、私も10年病気だったのと、妹もそれなりに引きこもり期間が長かった事や、母親は心療内科的な本を自ら買ってきたりしていたので、まさかそんな行動を取ると予想できなかったのも大きかったかもしれません。


しかし、それほどに、母親は、私の病気を知ろうとはせず、そして、幼い頃からの私の不調のSOSを信じてくれることが本当に少なかったように娘としては感じました。


勿論子供であっても仮病を使って学校を休んだり、親の関心を引きたくて嘘をつくことはあると思います。


ここで、私があくまでも子供目線で物を言わせて頂くと、「なぜ、その子は嘘をつかなくてはいけなかったのか?」
ということです。
例えば、仮病であれば
何故学校に行きたくなくなったのか?
いじめられているのか?
友達と喧嘩をしたのか?
はたまた、宿題をするのを忘れたのか?


どちらにしても何かしらの理由があって、その子供は仮病使わざるをえなかった状況だったということです。


親の関心を引きたくて嘘をつく。
ということは、何かしら親の関心がその子供からそれている、「親が見ていてくれない」という不安を子供が抱えているからではないでしょうか?


100%嘘をつく子供が悪くないと言えばそれはまた違うと思いますし、嘘をつくことは自体は悪いことだと思います。
嘘をついた事についてはきちんと「いけないことだ」と教えるのも親の役目だと思いますが、「何故その子供が嘘をつかなければいけなかったのか?」にもできれば目を向けて欲しいのです。


そして、次回そういう状況に置かれた時にその子供が嘘をつかずに正直に親に「◯◯だから学校に行きたくない」と言える関係性を作ってもらえたら親も、頭ごなしに叱ることなく、その事柄についての解決方法を子供と一緒に考えることもできますし、親子のコミュニケーションも少なからずとれると、私は考えます。


そして、その関係性を深めるためにも、まず親が子供を信じてあげることが大切ではないだろうか?と思うのです。


結果としては私は何か問題が起きた時、苦しい時、余程の事がない限り親には頼らなくなりました。
それは以前癌の疑惑が上がった時も、治療費を親に相談するつもりも起きないくらいに親に何かを伝える気持ちすらなくなってしまうのです。


多分相手を信じるという事は親と子供だけの関係性ではなく、恋人や夫婦や友達との関係でも大切なことだと思います。


相手を信じて初めてその人とのおつきあいが始まるのかもしれません。
逆を返せば、相手を信じる事が出来なければ、何十年来のおつきあいの人でも根っこでは繋がっていないという事になると、私は考えます。


相手を信じるという行動は、時に騙されたり、裏切られたり悲しい事もたくさん起きてしまいますが、全く人を信用できない状況で人間関係を構築しているのであれば、自分も相手には全く信頼されていないという事を頭の中で理解して納得した上でその相手の方と付き合っていく必要があるという事です。


自分は信頼しないけど、相手には自分を信頼してほしいなんて都合のいいことは起こりえないのです。
そういった関係性はどこかに歪みがあって、どっちみち破綻してしまうのですから。
それで良いと自分できちんと把握した上でもし相手に裏切られても、文句を言わないで付き合えると言うのであれば、私は止めません。


大人になればなるほど、心から信頼できる新しい関係性を構築できる人を見つけるのがとても困難になります。


幾つになってもそんな風に信頼しあえる関係性を保てるような新たな出会いがあると良いですね。

 

 

 

飴と鞭

【肯定と否定】

自己否定の強い人って結構いると思います。
多分に漏れず私もそうなんですが、自己だけならまだしも(良くはないけど)
誰かに何かを相談された時や、ご自身のお子さんにまで否定的な人も割と見受けられます。


過剰な自己否定もどちらかと言えば私には
「自己防衛」な気もしますが、周りの人の事まで余りにも否定しすぎるのも、本人の気づかないうちに周りの信頼や繋がりをなくすきっかけになりかねません。


相談を誰かにしたとして、その自分の意見を頭ごなしに否定されたらきっと相談をした人は余計に頭が固くなって頑なに自分の意見を曲げなくなってしまったり、周りが見えなくなってしまうことの方が多いように感じます。


確かに、相談の中にはどこからどう聞いてもおかしげな事もたくさんあって、もちろん私も話を全部聞いてからおかしいことに関してははっきりと「おかしい」とは伝えます。


ただ、相手が言いたいことを全て吐き出すまではなるべく遮らないようにして聞くようにはつとめています。
そして、相手が言いたい事を吐き出してから、
私は◯◯が■■に感じた、だからその意見には同意できない。
と、何がおかしく感じたのか、をはっきりと相手に伝えるようにしています。


たまに、そういう対応をして、相談してくれた人の全てを否定されたと受け取られてしまう人もいますが、なるべくそういう意見を言う前に「決して貴方を攻撃しているわけではない」
「私の意見や感想が全てではない」
という事を伝えた後に
「もし、私が貴方の相手であれば、こういう風に捉えてしまう可能性がある」
とか
「その話を聞いて私個人としてはこう感じた」
というように伝えるようにしています。


私が残念に思う、自己否定の人は
「どうせ私馬鹿だから」という人です。
私だってちっとも利口ではありませんし、
学歴も職歴もガタガタです(笑)


ただ、その「どうせ馬鹿だから」という言葉を使って、なんにも努力をする前から勝手に決め付けてしまうのは違うと私は思うのです。


馬鹿は馬鹿なりにもがいてみたら「それなり」かもしれないけれど、何かしら形になるかもしれないし、今より少し違う場所に行けるかもしれないのに、最初から何もしないで「馬鹿だから」という言葉を盾に逃げているようにあくまでも私には見えてしまうんですよね。
自分から色んな可能性を狭めてしまっているような。。。
勿体無いなぁと思うのです。


曲者な言葉は
「どうせ」
「面倒臭い」
の二つではないかと私は思うのですが、この二つの言葉を使ってしまうと大体のことは何も挑戦せずに避けて通れますものね。


別に挑戦したくなくて、現状に満足なら構わないのですが、この二つの言葉を使う人は、大体が現状に満足しておらず、何かしらに不平や不満があり、それゆえに愚痴や、相談事が発生している人に見受けられます。


それで、こちらが何かを提案すると
「どうせ」
「でも」
「だって」
「面倒臭い」
の言葉たちで一蹴してしまい、その後もずーーーーーっと不平と不満と愚痴を言い続けます。


それは、誰でも仲良くしたいと思いませんし、
一緒にいて疲れてしまうと思うのです。


ご本人そのものだけに否定的ならばまだいいですが、それがお子さんにまでその思考を植え付けてしまったら、多分お子さん達は何かを挑戦しようと思う前に
「どうせ馬鹿だし」
と色んな可能性を何もせずに諦めてしまうかもしれません。


大げさかもしれませんが、それはある意味


未来のサッカー選手や、文豪作家や、エリート商社マンや、、、、という彼らの未来の道を親御さんの「どうせ」という思考の植え付けによって、芽を出す前から枯らしているようなものではないでしょうか?


失敗は子供でも大人でも老人でも誰でも辛くて苦しいものです。


ただ、失敗をした時に受け皿になってあげられるのは子供からしてみれば最大の受け皿は親御さんです。
その親御さんが自らご自身のお子さんを冗談でも馬鹿にするような発言をしたり、「だから失敗すると思ったのよ!なんでそんなことしたの?」なんて事を言われたら、お子さん達はもう二度と何かに挑戦しようという気持ちは起きないと思います。


何かを失敗するのは人間なのだから当然です。
その時に、せめて命を投げ出したり、世界に自分は独りぼっちだと思われない程度に親が側にいてあげられたら、それだけで多分お子さん達は辛いながらも「何かしら」を掴んで成長していくんだと思うのです。


親御さんの自己否定の思考が実は色んな所に影響してしまうことを忘れずに、あまり否定しすぎず、褒められる所は褒めて生きていきたいですね。。。
(自分で自分を褒めるのは至難の技ですけどね(笑))