あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

ユーチューーーーブ

YouTube

YouTube 皆さんご覧になりますか?
全く見ない人も居れば、大好きなYouTuberチャンネルがある人まで様々だとは思いますが、今日は本当に私の個人的な感想を書きたいと思います。


最近では、歌番組に出演なさったり、バラエティー番組に出演なさるYouTuberさんもいらして、活躍してるなーって印象です。
小学生の将来の夢ベストテンにYouTuberが入る程に人気な存在になってきていて、勿論、活躍なさってるYouTuberさんもいれば、過激な行動の動画を流して人気取りをしているYouTuberさんも存在しています。


もれなく、私も色んなYouTuberさんの動画を楽しませてもらっている一人です。


ある程度年齢を重ねた人達からすると「楽して稼げていいよな」と勝手に判断して、YouTuberさん達の存在を蔑む人が居ることも確かですし、将来の夢としてYouTuberを掲げている幼い子供達の中にはそういう風に思って憧れている子供も一部には居ると思います。


私が個人的に見ていて思ったのは「考え方が柔軟な人達の集まり」であり「エンターテイメントとしていかに動画を残すか」を常に考え、「例え、YouTuberとして生活できなくなったとしても大丈夫な様に、ある程度の知識や、人脈や、色んなアンテナを日々張り巡らせつつ生活している人々」という印象で、それは言わば世の中に星の数ほどある「ベンチャー企業」の個人版であろう。
という事でした。


なので、何も考えずに、とりあえず人気取りだけで過激な動画を撮影し炎上させて急に人気者になったYouTuberさんに関しては割と早く消えていっているなぁ。。とも感じます。


どんな事にせよ、地道に活動なさってるYouTuberさん達の動画を拝見する限りでは、その時々の時事的な問題やら、流行りを自分達なりに取り入れて、自分達の動画を見てくれている視聴者達のニーズに応えた上での動画を配信していて、なるべく自分達のチャンネルとしての特色を持たせてなるべくリピーターとしての視聴者さんが増える様、日々動画を撮影しては、編集して配信する。
そんな風な毎日なんであろう。。と、まあ、私の勝手な考えだとそんな風に感じたわけです。


YouTubeの特色としては「時間に縛られない」とか「自分の好きなものだけ見られる」とか「芸能人と違って身近に感じられる」とか「YouTubeそのものが誰でも無料で観れるし、登録も、チャンネル開設も無料で出来る」っていうのと「特殊な機器がなくてもスマートホンで観ることが出来る」「電車や移動中、それこそ道端でも観れる」っていうのも支持される理由だろうな、とも思います。


別に「テレビが劣っている」わけでもなく今やテレビ番組もモノによってはスマホのアプリから無料や有料で観れるものも増えてきました。


どっちが、偉いとか素晴らしい!
とかではなくて、どちらもエンターテイメントとしては成立し、どちらもとても大変なスペシャリスト達の集団によって造られている作品なんだろうな。
という事。


そして、どちらの世界に住む人達も、私から見て「まだ、まだ、若者だなぁ」と思える年齢の人達が、こんなに頑張って柔軟な脳味噌で楽しい動画を撮影配信してくれているという事は、少子化問題とか問題は山積みであっても、ちゃんとした人達が育ってくれているんだな。
と思ったのでした。


多分、変わらなくてはいけないのは頭の固い大人達であって、そういう活動をしてくれている若い人達の将来的な夢や活動の芽を枯らしてしまわぬよう、もっと未来に希望を持てる様な世界にしないとダメなんであろうな。。。とも感じたのでした。


「そんなの当たり前だよー!」っていうYouTube御用達の人も「特に興味なくてアプリは入ってるけどあんまり利用した事ない」って人も、食わず嫌いせずにあれこれ自分に合ったチャンネルを探して見てみるのも気分転換の1つになって楽しいかもしれません。

相性

【凸と凹】

お付き合いをする異性について、誰しも何かしらの譲れない条件のようなものがあると思います。
(因みに私は味覚が合う人です)


また先日、お付き合いをする人は自分と正反対の人が良いとアドバイスをもらったことがある。。というとお嬢さんの話を聞いて私なりに感じたことを書いていきたいと思います。


良く、「価値観が同じ人」や「自分と似ている人」という条件をつける人やハウツー本も数多くありますが、それが全てというよりはそれも相手を判断する一部だと思います。
が、先程書いた「自分と正反対の人」は?という部分は
例えば物事をどうしてもネガディブに受け取りがちな習慣のある人が自分と同じ価値観の人と付き合うと、二人に何か起きた時や、どちらか一方に何かマイナスな事柄が起きた時にどちらもネガティブなので、どんどん二人とも気持ちやモチベーションが落ちていく一方。。
という事になりがちです。
そういう意味では、考え方がポジティブな相手が一緒にいると、別の角度から物事を見ることができるきっかけになったり、明るく振る舞う相手があちこち連れて行ってくれたおかげで必要以上に落ち込まずに済む。
なんて事もあるかもしれません。
勿論、悩んでいる本人からすればものすごくおおごとだったりするので、なんでそんなに能天気に振る舞えるんだろう?
と頭にくる場合も時にはあるとは思いますが、ネガティブな考えに陥る人は往々にしてそこまで落ち込まなくても。。という地点まで落ち込みすぎる傾向の方が多いので、それを防止するには正反対のタイプの人がそばにいてくれるのは良いことではないだろうか?と私自身は感じます。


勿論全くの正反対のタイプだとずっと一緒に過ごすのが苦痛になる場合も勿論ありますが、例えばお互いに一人の時間や趣味の時間は別で、二人の共通の部分を一緒に過ごす。。とかそういうお互いに一人の部分も充実させて、その上で二人の時間を更に充実させると、より楽しい時間が共有できるかもしれないですね。


ここで、肝心なのは私個人の感想ですが「押し付けない」ことではないかと思います。
例えば自分では絶対に見ないジャンルの映画でもお互いにオススメの映画が実はあって、それを見る前から批判するのではなくて、とりあえず見てみる。
で、肌に合えばそれは今まで知らなかった新しい世界に踏み入れる良い機会になりますし、やっぱり自分には合わないジャンルだった。。ということであれば、そのジャンルは相手の趣味の一つとして、相手のみで楽しんでもらう。
という事にすれば良いのではないか?
と思うのです。
もう一つのポイントとしては、自分が理解できない相手の趣味やジャンルについて「批判しない」ことではないでしょうか?
例えば女性からすれば男性のコレクター気質や、漫画熱や、アクション好きなどが理解できない。。なんて人もいますが、それは裏を返せば男性だって女性のメイク用品や、ブランド物のコレクション気質や、アイドルや美形俳優を追いかける心理や、コテコテのラブロマンスに共感できなかったりします。
その時にお互いが相手の趣味の理解できないジャンルをよく知りもしないで批判する事が割とあるように思いますが、
そんなよく知らない人に自分の好きなことを批判されればそれはみんな嫌な気分になりますよね?


たとえ双子であっても、家族であっても100%共感できる人が居ないように、それこそ性別も生活してきた習慣も全て違う人がそれを理解できる可能性はかなり低いと思います。


学生なんかの頃は毎日いつでも一緒に過ごすのが割と当たり前だったりしますが、年齢を重ねていくに連れ、別々に過ごす時間の方が圧倒的に多くなります。
その時にどれだけ充実して楽しい時間を共有できるか?はやはりその人個人がいかに自分の中に楽しめる一人の充実した時間を紡いできているか?によると私は思います。


なので、凸凹がぴったり当てはまるように、お互いに相反する部分もお互いにとても共感できる部分も両方があるからこそ、長く相手と楽しく過ごせていけるのではないでしょうか?


その上で自分なりに譲れない条件に相手が当てはまるのか?
をゆっくり見極めていけば良いのではないでしょうか。


焦って相手を見つける事に奔走するよりも、まず、自分の中身を充実することから始めるのも良いかもしれません。

 

糖質とは

【肥満と貧困について】

国際的に肥満問題が拡大していますが、人によってはまだ「貧乏なのになんで太ってるんだろう?」という疑問を持っている人も居ます。


生活保護を受けている人も、勿論その人の元々の体質にもよりますが、割とぽっちゃりする人も居ます。


私は、過食症だったのもありますが、私の家族には、生活保護になってから、「お金がないのになんで太ってるんだ?」という質問と「食べ物に無駄遣いしているからお金が足りなくなったりするのではないか?」というような事を言われたことがあります。


私の経験からすると、貧乏な方が太るのです。
なぜなら、自炊力がある程度ある人であれば、当然、なるべくお金のかからない自炊で生活をしようとします。


が、健康的な野菜や、果物や、肉や魚は、何分値段が高く、本人が満足するように栄養の整った食事を作ろうとすると、中々そこまで食材をひと月切らさないように揃える為の予算もないですし、ごく少量で揃えれば、結局のところ本人のお腹が満たされない。。。


世の中で一番安く売られているのは
「炭水化物」なのです。
お米や、小麦粉や、麺類。


お料理そのものは割と好きで、レシピが分かればある程度の物は殆ど自分で作って食べる事ができ、野菜も取り入れられる時になるべく食べるようにしてます。
野菜の好き嫌いも特になく、どちらかといえば野菜が好きな方なので、自ら買わないのではなく「買えない」のです。


でも、お腹は空くし。。。


で、お腹を満たすために、例えばお米だけ
とか
麺だけ
とか
小麦粉で何かしら
とか
保存の効く調味料と炭水化物だけ。
のような食事でお腹を満たしてしまうのです。


アメリカやオーストラリアでは貧困と肥満の関係が最近社会問題として、一般家庭の人達にも知識として教えられるようになりましたが、日本ではまだあまり注目されておらず、知っている人と知らない人でかなり落差があるように感じます。


家賃・光熱費だけは必ず滞らないように支払っていると、住んでいる場所のガスの種類によってだいぶ毎月の利用料金が変わってきてしまい、そのために他の部分を節約。。。となると後減らせるのはやはり食費くらいしかないので、安くてお腹がいっぱいになるもの。
なるべく長持ちしてひと月切らさないでいられるもの。
となるとどうしても安価な炭水化物に偏ります。


そんな炭水化物まみれの食生活しか送れない生活で過食症だとてきめんに太ります。
あっという間です。


決して贅沢しているわけでも、お菓子ばかり食べているわけでもありません
(勿論中にはそういう人も居ます)
そして、偏った栄養価で太った体は当然血管や健康にいいわけもなく、気づくと体調面にも異常をきたしている。。。そんな悲しい負の連鎖が続いてしまったりもします。


我が家の母親は「太っている自分の娘」の見た目がどうしても好きになれないらしくて、大いなる誤解のもとに、いろんな事を言われました。
どうしても太っている→お菓子ばかり食べている もしくは 贅沢なものを食べている もしくは ジャンクフードばかり食べている


と勘違いしてしまっているらしくて、もっと野菜を食べなさい
とか
お菓子とか食べてるからそんなに醜く太るんだ
とか
余程太っている見た目が嫌いなんだろうなぁと感じる言葉をかけられました。

そんなことはなく、むしろ貧困でジャンクフードはおろかお菓子でさえ買うのをためらうくらいに食費を節約していたからこその肥満でした。


過食症だからという理由もあったかと思いますが、あまり好き好んで太っている人はいません。
勿論、もっと自分に厳しく管理できていれば太らなかったのかもしれません。
今更後悔したところでどうしようもありませんが、その時期の私には恐らくストレスを解消できる唯一の方法が食べることだけだったのだろうと、今は思います。
結局その後、吐き戻すまで食べてしまうようになり、これは自傷行為に近いものがあると、自分でハッキリ感じるまで食べてしまうようになりますが。。。


ただ、周りからのそういう一言で、余計に太りやすい何かしらを見えない場所でまた、口にするきっかけになることを周りもある程度は把握した上で接してもらえると、ありがたいなぁと、思いました。

 

 

自分のリズム

【生活リズムについて】

メンタルの病になると、不眠だったり、過食だったり、拒食だったり、はたまた過眠だったり、様々な症状が身体に出てきて、今まで通りの日常生活を送れなくなることが多々あります。


病気になりたての頃は心も体も、脳みそも疲れ果てているので、なるべく休養するように、医師にも言われますし、周りの理解もそれなりに得やすい状況ではあります。


ある程度の期間休めるだけ休んで、少し心も体も回復してきた際に、焦りは禁物ですが、人によっては「まだ病気だし」と休養期間をそのまま続ける人が居ます。


その場合に、「仕事(もしくは学校)にどうせいけないのだから、規則正しい生活でなくてもいっか」と思ってしまって、日々朝型の日もあれば、夜中まで起きて夜明けに眠るなど、一般的な生活リズムを無視した生活を送る人が割と居ます。


例えば朝型体質の人と夜型体質の人ではもちろん生活リズムは異なりますが、病気になる前の本人の大体の生活リズムがあったと思います。
少しずつ心と体の余裕が出てきた時に、その元のリズムを心がけるように生活を送るのと、「何もないし」と好きなように生活リズムグチャグチャで過ごしてしまうのでは、治り方のスピードが全く異なってきます。


一度病気になって、体の中の全ての機能がオフになり、ある程度の休養期間を経てまた生活を送るというのは、生活リズムが真っさらの状態に戻っているので、その後、少し回復してきた時に生活リズムがグチャグチャだと、真っさらの体が日々の生活をどういうリズムで送っていけばいいのかがわからなくなってしまって、イザ、社会復帰や学校へ復帰しようとしても、朝起きれなかったり、予定の時間まで体力が持たなかったりして、通えなくなり、そんな自分を責めてしまい、また初期の頃のように少し状態が悪くなってしまうという負のループにはまり込んでしまい中々そのループから抜け出せなくなってしまう人が多くいます。


学校や会社に復帰すれば強制的にその時間には起きなきゃいけないから起きれるだろう。と高を括る人も居ます。
実際、復帰直後は緊張もしていて、起きることができたりもしますが、復帰して3日後や、もしくは初日を終えて次の日からなど、スタミナもだいぶ落ちてしまっていて、朝起きることですら辛くてできない。。という状況になりかねません。


人間何かしら目的がないと、決まった時間に起きて、生活をするというのが結構難しい生き物です。
何か役割があればできる。というのも事実ですが、やはりイキナリ元どおりに働いたり、通えたりできるか?というと実はそれは自分の予想以上にできなかったりします。


また、生活リズムをある程度整えている状態で病気を治すのと、生活リズムがグチャグチャの状態で病気を治すのでは、だいぶ治り方のスピードに差が出てきます。


もちろん、人それぞれ病気の原因や置かれている状況なんかも違うので一概には言えませんが、私は入院先で出会った、同じ病気の子達で、家庭環境や、原因も割と似ている人達(私も含め)の治り方が出会ってから10年後で雲泥の差が出ていたのです。


その違いは一体なんであろう?とそれぞれに話を聞いてみたところ、やはり生活リズムをある程度整えながら生活をしていたのか、それとも気持ちの赴くままに好きな時に起きて好きな時に寝てというような、日によって全く違う生活リズムで生活していたかに顕著に分かれたのでした。


同じ10年間でその後送っていく生活がそのまま病気になった時と同じような苦痛を伴う闘病生活を送り続けるのと、ある程度病気から解放されてそれぞれの生活を送っていくのは、やはり楽しめる人生の時間の長さかだいぶ違ってくるように思います。


そのために、闘病中にいい意味で自分で自分に上手に飴と鞭を使いこなして、ほんの少しずつでも、前進していけるように、最初はきつくても、生活リズムを整えて生活をしていけるようにできると、その後の治療が楽になってくるかもしれません。


もし、昼間何もすることがなくてついつい眠ってしまうという人の場合は、病院によってはデイケアやナイトケアなど、食事も込みの有料ではありますが、利用できる制度を行っている病院もあるので、通っている病院に問い合わせてみたり、今通っている病院にその精度がなくても、提携している病院へデイケアだけ通わせてもらうなどの制度を取り入れているクリニックなどもあるので、調べてみるのもいいかもしれません。


デイケアやナイトケアは保険適応だったり自立支援も適応となる場合がほとんどなので、もし、金銭的に不安な人は最初に利用料金を病院に教えてもらっておくのも良いかもしれません。


もちろん、デイケアなどに通うとデイケア内での人間関係なども発生するので、あまりにもその人間関係が負担になるなどの方の場合には、無理やりデイケアに通わないで、ご自身の生活の中でどうやって生活リズムを整えるのか?を考えて日々をすごのもいいかもしれないですね。

 

 

 

新しい風

【気分転換について】

昨日、自傷行為の話を書きましたが、自傷行為と気分転換の境目は何処なのか?
について今日は書きたいと思います。


なんで、メンタルを病んだ人達が極端な行動ばかりするのか?


それは、本人たちにはその行動が「極端だ」と認識できない程に、脳みそが色んな事柄の判断力や、記憶をシャットダウンしてしまって、とにかく生命を維持させるようにしか動かなくなっているからです。


よく、「鬱病や、不眠症になる人は気が弱い」や最近ではだいぶ減りましたけど
「根性が足りない」とおっしゃる方が居ますが、鬱病のようにメンタルを病んでいくと、色んな事柄の判断力が鈍るだけではなく、眠くなるはずのホルモンを脳みそが出さなくなったり、満腹を感じるはずのホルモンを脳みそが出さなくなったりして、脳がだんだん変形していくそうです。


言葉を返せば、脳みそが変形しなければならない程にその人は頑張っていて、自分の限界値を感じられなくしないと、今現在の仕事が続けられなかったり、今現在の住まいに住んでいられなかったり、今現在の人間関係を続けていけない程に追い込まれている状況だということなのです。


確かに「病は気から」も一理あるとは思います。
病気に逃げてしまって何もしない人は「自分は病気である」と自己暗示をかけてある程度調子が良くなっても、その後の治療に取り組まない人もたくさんいます。


ただ、その人達も、一番最初は健全な心と身体と脳みそを持っていて、頑張らなくちゃ、そうしないと自分は生きていかれない。
という気持ちから、脳みそが変形するほどに心を病んでしまったのですが、変形した脳みそが努力と根性だけで、数ヶ月で治ると思いますか?


整体やマッサージに行く方はご存知の方も多いと思いますが、一度癖のついた身体は、そういう場所で施術を受けてもすぐにまた元どおりになってしまうので、最初の頃は整体師さんたちに、頻繁に通うように言われると思います。


身体の表面から押したり揉んだり、運動したりマッサージしたりで、表面的に施術できるところですらすぐに戻ってしまうのに、ましてや、外側からのアプローチも何もできず、患者本人の申告に従うだけで薬を探り探り処方していって脳みそがホルモンをまた出せるように働きかける。。。そんなアプローチしかできない病気に対して「気力と根性だけで乗り越えられる」という方が居たら、私は残念ながらその方とはお友達にはなれません。


そんな状況での彼らはメンタルを病む前から「気分転換が下手」です。
ストレスが溜まっていることを自覚してなかったり、疲れを感じられなくなっていたりするので、どうしても爆発した時にものすごい爆発力で周りを巻き込んでしまったり、自分も瀕死の状態にまで落ち込んでしまったりします。


私も割とそういう性格だったので、爆発力が半端なかったように思います。
例えば
突然暫く仕事できないし、、と髪型を坊主にしてみたり。
例えば
いきなり家出してみたり。。。


その例えば、、がいつかしらだんだんエスカレートして自傷行為にまで陥ってしまうことが度々あります。


私が主治医から「完治宣言」をもらって自覚したことは
この病気は完治はない。
それよりも感情の波が自分で管理できる程度の小波なのか、それとも津波級のものなのか?の違いであると気づいたのです。


健常者だって、だれでも、全くなんの悩みなどない人間や、全くストレスを感じない人が居ないのと同じです。
ただ、メンタルを病んだ人と健常者の人の違いは、ストレスを感じた時にその解消の仕方を圧倒的にメンタルを病んだ人は知らないということです。


私が完治宣言をもらってから心がけていることは、昔ほどそこまでストレスが溜まっているように自分では感じてなくても、なるべく自分が心地いいと思う事を状況の許す限り行うようにしたのでした。


「それだけ?」って思うかもしれません


が。。         それだけ                なのです


だからその発散する事は時によってカラオケだったり、時によってカフェでお茶だったり、時によって携帯を切って誰とも話さないし、ネットもしないだったり、お笑いを見まくって笑いまくるだったり、編み物をしたり、お料理をしたり。。。はたまた、お友達に話を聞いてもらったり。。ショッピングだったり。


解消法は千差万別です。


メンタルを病んでいる人に私も含め多いのは、病んでいる自分が楽しい事をしてはいけないと思う思考。
そして、そういう状態の自分を
「サボっている」と思ってしまうことではないかと、私はここ最近は思います。


確かに、周りはどんどん結婚して行ったり、キャリアを積んでいたり、はたまた勉学に励んでいたり、留学していたり。。。


なんで、周りの人達はできているのに、自分は同じようにできないんだろう?
と病気になった事そのものに悩んでしまうので、もっと、もっと頑張ろうとして、余計に脳みそが色んな機能を制限し、身体が思うように動かなくなってきてしまい、最後には爆発してしまうのです。


勿論、私だって、未だに「なんで自分は同じようにできないんだ?」と負の思考ループにはまって抜け出せなくなりそうになるときもあります。


そうなる前に、少しずつ、3日寝たら治るとか、カラオケで大声だしたらスッキリするとか、問題が何にも解決してなくても、気分がスッキリすると、人間は考え方も明るい方へと考えるようになります。


どうしても、疲れてたり、睡眠不足だったり、お腹が空いてたりすると、人間はネガティブ思考になるので、その時に下した判断は後々とてつもなく後悔することが多くなるのです。


そんな時は、強引にでも寝て、そして空腹を満たして、疲れを取ってから、判断すればいいのです。


その判断をしなければ心臓発作のように一分一秒を争って、誰かが死んでしまうという問題でなければ、周りはわりと何も変わりません。


なので、自分にあった発散方法で、特に異変を感じていなくても、自分を労わって、休ませる。
それを特別な事として捉えずに、日常生活の一部として、取り入れる事が、極端な行動に走る前に出来る予防策だと、私は感じます。


そうして、自分の心の中の感情の波が一定で、穏やかな海がある程度保てるようになれば、きっと色んな症状も段々と治まってきて、色んな道筋が見えてくるかと思います。

 

 

生きている実感と孤独感

自傷行為について】

自傷行為は、一般的に知られているものだと
リストカットや、大量服薬なんかがあります。


今日はこの二つの事についてではなくて、一般的な人が「自傷行為」と認識していないけど、ある一定を越えると自傷行為になる事柄について書きたいと思います。


割と、自傷行為だと認識されていないのが、「過食症」と「拒食症」が代表的かもしれません。


どちらも病気としては認識されていますが、病気を体験した私としては、完全な病気となるまでに達しなくても、メンタルを病んで、過食症になり気味の人や、拒食症になり気味の人が結構います。


私も、完全なる過食症になる前に過食症気味に食べてしまう現象が起きて、2年ほどで45キロ増えてしまいました。
それでも、過食に対する何かしらの治療はとくにはありませんでした。


食欲を抑えるケミカルな薬は存在はしているものの、とてつもなく効力が強く、食欲を抑えはしますが、副作用として幻覚や幻聴症状が出てしまうらしくて、主治医が出さなかったのでした。


また、拒食の場合は周りも心配はしますが、過食はどちらかといえば、周りの心配もなく、どちらかと言えばなんか貶されたり、諭されたり、マイナスな感情を相手に抱かせてしまうようで、、、


私自身は母親が妹に「あの人の餌を買わなきゃいけないの、本当やんなる。。。ぶくぶく太るし、お金の無駄ね」と言っているのを聞いてしまってからものすごく悲しく感じて辞めたいけど、食べるのを止められなくて、もっと苦しくなる上に自己嫌悪に陥るという負のループがとても重くのしかかって抜け出すのが大変だった苦い思い出があります。


食べることは元々好きでしたし、作ることも好きでした。
なので、お金がなくても何かしら家にある材料で作れるものを考えて作って食べてしまっていました。


しかし、過食になって食べる食事はどんなに食べることが好きな人間でも、段々と苦痛になって、食べたくないのに、食べないと脳みそが満足せず、孤独感がジワジワと黒い影のように周りを取り囲み、怖くて怖くて、そこから逃げるために何かを食べて、安心感に包まれてやっと眠れる。。。


そんな繰り返しから、脳みその中で
「食べる→安心して眠れる」の図が出来てしまって、食べても眠れないと、脳みそが「食べる量が足りないんだ!」と勘違いして、内臓的には限界なのに、食べないと耐えられない状況に陥って食べ過ぎてしまい、あまりにも限界を越えると内臓が悲鳴をあげて嘔吐してしまうんですね。


なので、ある程度、胃腸が丈夫な人は「もったいない」という思いもあるので、なるべく吐かないようにするため、どんどん太ってしまう。。。


お腹はいっぱいのはずで、苦しいのに脳みそではブラックホールのように空腹を感じて、とにかく食べまくる。。。


それは、見ていてもいい気持ちはしないでしょうが、食べている本人はもっと辛いです。
自分が大好きな事をしているはずなのに、苦痛な上に、食べても食べても満たされないのです。


拒食症はその反対で食べられなくなる事です。
太り気味の人や、過食気味だった人が食べられなくなると、周りは「痩せるからいいんじゃない?健康にもなるだろうし」とこれまた余り心配されませんが、過食も拒食も進みぎると、どちらも骨と皮だけみたいな体型になり、生命の維持が難しくなるので、食欲が異常になった場合には周りは割と深刻に考えてあげたほうがいいかもしれません。


過食は、症状が進みすぎると、食べる量がおかしくなるので、内臓が対応できなくなって、最終的には必ず食べた後に嘔吐するようになってしまいます。
なので、過食症があまりに進みすぎた人は、拒食症の人と同じように、ガリガリになってしまいます。


拒食症の人は、食べる事そのものが怖くて食べられても裏でこっそり吐いている事も多々あります。


「吐く」という行為は、全身にものすごく力が入って、涙も鼻水も出るし、何より胃酸で歯が溶け出してしまいます。
そして、食道も酸にやられるので、最終的には別の病気も併発してしまいます。


歯は確実にボロボロになりますし、吐けば栄養が吸収されないと思って吐いて安心する患者さんはおおいですが、実は食べ物は口に含んだ時点で口の中の粘膜が吸収してしまっているので、勿論最終的に全部食べるのとは同じように太らなくても、本人が望んでいるようなプラマイゼロには決してなりません。


どちらにしても、行きすぎた行為は自分を傷めつけているのと変わりがないのです。


私はリストカッターでも、プチオーバードーズ者でもないので、それをした時の感じはあまりわかりませんが、どちらの自傷行為も経験している友人はいます。
リストカッターの人達が口を揃えて言うのは、何処かを切って血を見ると「自分は生きているんだなぁ」と生きている自分を感じるために切るのだと言っていました。


中には本気で死を考えて切る人も居るみたいですが、殆どのリストカッターの子達は本気で生き死に云々というよりかは、自分が生きているという事実の確認のために切るようです。


プチオーバードーズの人はお薬で頭がボンヤリとして、朦朧とした感覚を楽しみたい部分もあるようです。
(あくまでも個人的な感想です)


例えば人によって行きすぎた行為は様々な形を持って現れます。


それは、出会い系を利用して毎日知らない人と肉体関係を持つ人もいれば、身体中にボディピアスを開けまくる人もいれば、身体中に刺青をする人もいれば、異常な程に手を洗わないと気が済まなかったり。。。


潔癖症も行き過ぎるとそれは自分を傷つける行為になるのです。


わりとその事に気付かずに
あの子はフシダラだ
とか
ゴツい趣味だよね
とか
綺麗好きなのかな?
とか
割とそれぞれの行動が
自傷行為」とは受け取られずに見過ごされている事がおおいように思います。


毎晩取っ替え引っ替え、いろんな異性と肉体関係を持つ女の子に話を聞いたときは
「そうでもしないと誰かに必要とされている感じがしなくて、死にたくなるから」
という答えが返ってきました。


ボディピアスや、行きすぎた刺青やタトゥーを入れる人は、もうなんだか入れないと気が狂いそうになるから。。
という答えでした。


潔癖が行きすぎた子は周りが止めても、手が乾燥しすぎてあかぎれが切れて、流血しまくっても、何かしら汚い気がして手を洗うのをもう自分では止められないと言ってました。


ある程度元々の性格の傾向もあるとは思いますが、やはり周りから見ても行きすぎた食欲や、性行為、潔癖行動なんかは、何かしら、どこかしら心や体がSOSを出している事がおおいので、そういう人が側にいたら、助けてあげて欲しいのです。


私の場合はその時に飲んでいた睡眠薬があっておらず、そして、病気の原因はわかったけど、そこからどう動いていけばいいのか?
自分の家族をどう諦めたらいいのか?
その道筋が見えにくくなっていたのと、カウンセラーさんの産休や、主治医のクリニック移動による一時的な休業が重なって、余計に眠れないと焦る症状が進みすぎて、100キロ近くまで体重が膨れ上がり、しまいには食べた後に耐えられずに吐いてしまうようになったので、一時的に病院を転院して、まず、睡眠薬を変えて、少し強いものにして、強制的に眠れるようになってからは、夜の孤独感に襲われる事が少なくなったので、自動的に夜中に過食してしまう事が減ってきて、自然に15キロほど3ヶ月で体重が減りました。


そこから、カウセリングを受けたり、しつつ、少しずつ浮上して過度な過食行動には今の所至ってはいません。


女性なので、生理前などに少し食欲がおかしくなったり、ストレスを強く感じるとたくさん食べたりはしますが、過去のように食べたくないのに食べてしまう。
や 吐くほど食べてしまう。
という事はなくなりました。


わかりやすいリストカットや、プチ大量服薬ではない、行きすぎた行動を取る人は何かしらの自傷行為を本人も自傷行為と気付かずにしてしまっている事が多いので、もし、そういう人が側にいたら、その行動自体が自傷行為ということ、可能であればちゃんとした病院にかかることなどを勧めるか、ご自身の余裕があれば、たわいもない話をするなど、、、自分が振り回されない程度に側にいてあげることが大切ではないかと思います。


自傷行為をするということは、少なくとも何かしらの寂しさや、誰かに見てもらいたい気持ちや、計り知れない孤独感に押し潰されまいとして、その行為をしてしまっていることが殆どです。


その人が全く自傷行為をしなくなるように周りの人がどんなに頑張っても医療機関の人間でないと、手助けをしているつもりの人が振り回されたり、実はいらない親切で余計に自傷行為を促してしまう事もあるので、何もできない状態であれば、ただ、側にいてあげるだけでもいいと思います。
「誰もいない世界」ではなくて「誰かはいてくれる世界」という認識だけでもとてつもなくありごたく、思えるものです。


そして、最後にはやはり本人が自分の自傷行為を認めた上で、本気で病気そのものや、自傷行為と向き合わなければ中々その状態からは抜け出せないので、その事を念頭に置いて周りも側にいる必要があると思います。


どちらにしても、自傷行為をする本人も、その周りの人も、お互いにハッピーで、適切な距離感で付き合っていけるといいですね。

 

フリーダム

【男女平等について】

セクハラ問題や、パワハラ問題に溢れる今日この頃ですが、今日は私が個人的に思う「男女平等」について書こうと思います。


多くの国が「男尊女卑」がベースになっている中で「フェミニスト」と言う人もいれば、ある意味物凄くヒステリックな位に「女尊男卑」になっている人もままあります。


私がなんとなーく思う事は、どっちが優れているとか、どっちが劣っているとかという問題ではなく、また、ヒステリックなまでに「男尊女卑」や「女尊男卑」を訴えている人達の求める全くの「男女平等」というのは、難しいのでは無いだろうか?
という、感想です。


あくまでも、私個人の考えですが「男性」と「女性」ならずとも人それぞれに得意・不得意な分野もあると思うし、LGBTが叫ばれる昨今「男」と「女」の差別化でさえあやふやになりつつあるのも事実です。


ただ、単純に考えれば「男性」は「女性」より力が強かったり、スタミナが持続したりする場合もあるし、勿論その逆も然り。
「女性」だから繊細な作業が得意か?と言われれば大雑把な人だっている。
というのも事実です。
ただ「男だから、女だから」で区別するのではなくて「その時々のシーンに合わせて得意な人がその事柄をやれば良い」のであって、女だから発言しちゃいけないわけでも、男だから猛々しく振舞わなければいけないわけでもないのではないか?
そういう意味で男性であれ女性であれ、はたまたLGBTであれ、その人がその時に出来ることをしてお互いに支え合って、家庭やら会社やら政治やら国やらを運営していけばいいのでは無いか?とも思うし、その状態で初めて「お互いに平等な立場」になるのでは無いか?
と思ったのでした。


家事だって、得意な人がやれば良いし、お互いに苦手ならばまだ譲歩できる部分をお互いに出来るところをなるべくやるでもいいだろうし、もしくは、家事を自分達でしなくても良いようにめっちゃ稼いで外部の業者さんに頼む でも全く構わないと思うのです。


ただ、現時点の世の中ではベースに「男尊女卑」が根強く残っている人達が政治を動かしていたりする事や、そもそも子育てをする世代が無意識的に男尊女卑を子供に植え付けたまま育てたりしている事も多々あるので、その中で反面教師になってヒステリックなまでに「女尊男卑」を訴えたり、男性を軽蔑したり、反対に無意識的に「男尊女卑」の思考のまま育った男性が意識なく女性を軽蔑視している発言をしたり、セクハラ行為を行なっているのでは無いのだろうか。


と感じたのでした。


どちらにせよ、女性も男性もLGBTで性別がはっきりしなかったとしても、人間が人間をなんらかの理由もなく性別や分類が自分と異なるだけで軽蔑視する事が「男女平等」をどんどん遠ざけてしまっているのでは無いだろうか。
と思うのです。


「ウチの旦那ちっとも家事をしてくれない」
「家事をお願いしてもちっとも役に立たない」
それは事実かもしれません。
では、旦那さんが主夫になって、奥さんである貴方は旦那さんと同じだけの労働時間で同じだけ稼げるのか?


女性だって物凄く経営の才能がある人もいれば、会社でバリバリ仕事をこなして沢山のお給料を手にする人も勿論いるでしょう。


「ウチの嫁ちっともご飯が美味しくない」
「三食昼寝付きで良い身分だよな」
そう仰る旦那さん方もいらっしゃるでしょう。
では、そう言う旦那さん達は365日働いて帰ってくる奥さんに美味しいご飯を毎回飽きないように献立や栄養バランスや予算を考えて用意し、その間に子供の世話やその他の家事の時間配分をして家庭を回していく事が出来るのでしょうか?


男性であってもお料理が得意で家事の作業が大好きで奥さんより遥かに効率よく家庭を回せる旦那さんも勿論いると思います。


どっちの仕事も大変で、どちらだけが楽という事は無いと思います。
ただ、共働きの場合には話が変わってくるとは思いますが、往々にして奥さんの負担が多くなりがちなのは確かです。


相手を軽蔑したり、軽視したり、バカにしたりして、相手が仕事をしている。
相手が家事をしている。
その事に対して男も女も関係なく、お互いがお互いを尊敬し、感謝の気持ちをちゃんと表面化し、お互いに苦手な部分を補い合いながら一緒に居る。


そこで、初めて「平等な関係」だと思えるのでは無いか。


と、私は思うのです。