あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

縛るのも縛られるのも

【私なりのヒモ論】

先日、20歳なりたて位の男子二人組が同じ飲食店の隣の席で「あー!!

ヒモになりてぇなぁ!!」と言うのを聞いて「そんな事思うんだ!こんなに若くから。。」と驚いた私です(笑)
どうやら、彼らは学生さんで、親の仕送りを貰いつつアルバイトをして学生生活を満喫している様子。
片方の男子に限ってはバイトばかりしていて、あんまり学校に通ってすらいない様子でした。


「ヒモ」というと、交際している女性が働いて、彼の生活費全てをまかない、二人で生活して行くのを自ら選んでいる男性。
の事を一般的には呼びますが、過去にだメンズばかりと付き合ってきて、大体の男性を「ヒモ体質」にしてしまった私なりに今その状態から脱したから故の気づきた事があります。


「ヒモ」になりたがる男性に多いのが「自分の現在の生活や人間としての質を下げずにただ単に働かなくても良いように女性に養ってもらう事」と捉えがちですが、それが出来るのは江戸時代のトップの花魁のように、知性や、一般常識や、品格の良さなどを身につけている男性であれば、質の良い女性が面倒を見てくれるという事例は存在すると思います。


ただ、一般的に「ヒモ」を育ててしまう女子は、どちらかといえば品格などにこだわりがなく「この人私がいなくちゃダメなヒトだわ」と思い込み、無意識に彼に対して見返りを求めながらも健気に彼の為に働く女性が多いという事実。そういう女性に養ってもらう「ヒモ」の男性は、女性の質や品格のみならず、自分自身の品格や質も落としているという事に気付かない事です。
気づかないばかりか「俺モテるし」位の勘違いをし、男性が女性に頼れば頼るほど自分の質を下げていることに気づきません。


要はそれなりの男性にはそれなりの女性しか寄ってこない


という事です。勿論逆も然りで、それなりの女性には、それなりの男性しか寄ってきません。


そんな20歳ソコソコの若い男子が闇雲に「ヒモ」になれれば、楽な生活できるのにー!!という願望を語っているのを横で聞いていて、クスリと笑ってしまった私でした。


私も昔は自分の承認欲求をみたしてもらうためだけに、ヒモ体質の男性とお付き合いをしては別れ、また、そういう男性を見つけては付き合い。。を繰り返していました。自分を認めてもらうだけの欲望の恋愛はどちらにしてもあまり良い形は生まれてきません。
歪んだ愛になってしまったり、片方が冷めても、片方が依存してしまって中々別れられなかったり。。


自分の周りに居てくれる友人や恋人などはその時々でその人達との関係性の密度が変わることがよくあると思います。
私は、彼らを「その時々の、自分を映し出す鏡のような存在」と思うようにして、付き合って行くうちに、自分にとって必要な人、そうではない人(例えば利用するだけの目的で近づいてくる人など)を段々と見分けられるようになり、結果的に自分自身の質の底上げをした結果、今までにない私にしては上質な男性とお付き合いする事が出来ているという事実でした。


「ヒモ」は一見とても楽そうに見える生き方ですが、女性に依存して生きて行くため、彼女たちにいかに嫌われないかに焦点を当てて常に気を配り、彼女たちの機嫌を取り、彼女たちにいかにご奉仕するか。
そして、他のヒモになりたい男性といかに違っていて秀でた場所を彼女たちにアピールし続けるか。
にかかっている生活ともいえます。


なので、男性の欲望のままに生きる為のヒモ関係は大体がすぐに破綻し、また次の女性を探す。。ということの繰り返しの、生活。
それは、若い頃はなんとかなっても、歳を重ねる月日の中で、ちゃんと人間としての厚みを持たないままに歳を取った薄っぺらい男性は年老いた時に、残念ながら誰からも相手にされないでホームレスなどになる他無くなるでしょう。


ヒモとは、恐らく自分の人間としての品格を決定づける、楽なようでいて、厳しい生き方だという事を、今の若い男性達に知ってもらうとともに、そんなだめんずばかりを好きになってしまう女性の方々は、ご自身の品格の底上げをしてみると、また違った世界が目の前に広がるかもしれません。

すっからかん

【自己破産について】

久し振りの更新となりました。
暑かったり、寒かったり、あちらこちらで災害が起こってしまい沢山の犠牲になった方々達に心からご冥福をお祈り致します。


今日は、自己破産について書こうと思います。


自己破産は、基本的に原則として一生に一度しか出来ない。という取り決めになっているらしく、2回以上の自己破産手続きが認められることは稀です。


自己破産手続きをすると当然のことながらブラックリストにも載りますし、クレジットカードや、正規ルートでの借金も勿論出来なくなりますし、身近な所で言えば携帯電話の新規契約や、機種変更の際の割賦手続きも審査が通らなくなるので一括で購入する以外に方法がなくなります。
なので、今現在何処かしらの携帯会社と契約して携帯電話を、所持している方はその会社との、契約を解除したり絶対にしない方が身の為です。
格安SIMなどの格安スマホ会社も現在では多数進出しており、確かにとてもお得な値段で使う事が出来ますが、自己破産後には確実に契約できなくなる上に、そのような格安SIMは支払い方法が全ての会社でほぼクレジットカードのみとなっているので、そもそもの契約ができないどころか、万が一にも契約まで漕ぎ着けても本人名義のクレジットカードが一枚もなければ利用する事すら出来ないただのガラクタになります。(デビットカードのような形式のクレジットカードは殆どの格安SIMの会社で支払い方法に選べないようになっています)


後、自己破産をした後に困るのは、賃貸物件を契約する際の保証会社の審査に通らなくなる事です。
ブラックリストに載った情報は信用者情報局という場所で5年間保管され、その後に情報自体が破棄されるものの、クレジットカード会社や、携帯などの通信会社、不動産などの会社などどれも信用者情報のブラックリストに掲載された人のデータは危険人物としてほぼ永遠に近い形で各社で活用され独自の審査基準を設けて契約の際に審査にかけるので、今住んでいる場所から引っ越して新しい場所で契約をする際に何処の不動産会社とも契約できずに済む場所が確保できない。
なんてことも考えられます。


なので、安易にあちらこちらで借金をしまくったり、通販でかいものをしても後に買った商品の支払いを怠ったりし、支払い能力が無くなった際に自己破産を安易に考えるのは大変危険です。


また、自己破産手続きの際に確実に最低手続きをする料金として五万円を支払わなければ、自己破産の申し立てが出来ない仕組みになっています。
お金が無くて今までの分も支払うことができないから自己破産するのに、その手続きにも、そこそこのお金がしかも一括で必要になって来ます。


また、自己破産をすると決めてから申し立てをするまでの直近2ヶ月分の家計簿のようなザックリとした自分の収入と何にいくら使ったのかを明記した書類の提出。
自分が所持している銀行の通帳のコピー
3ヶ月以内の住民票や、生活保護を受けている人であれば受給者証書類なども提出する必要があります。


その上で、何をどのような理由で借金をし、もし、借金なのであればそのお金を利用した細かい内訳や、何故そのお金を使わなければななかったのか、商品であれば何故その商品を買わなければいけなかったのか。。などの理由も弁護士さんにお伝えして、あくまでも「詐欺性」のない借金であった事や、返すつもりやあてもなく闇雲に商品を購入したり、借金を重ねてはいなかった、あくまでも支払う意思はあったという事を証明しなければ自己破産は成立しません。


私が行った自己破産では、地域にもよると思いますが、裁判官からの質問として「今後、このようなことの起こらないようにどのような生活の立て直しを図るおつもりですか」という質問がなされました。
この質問に関しては弁護士さんも全くの想定外の質問だったようで、弁護士さんが事前に教えてくださった質問の例としては、借金としてあげた物の内容の「なぜその時そのお金が必要だったのか」について深く掘り下げて聞かれる場合がある。
という例がどうやら一般的な裁判所では多いようです。
たまたま、私の住んでいる地域の裁判所や裁判官の方は自己破産前の事ではなく、今後同じ事を繰り返さないようにどのような心構えをしているか を確かめることによって、自己破産を申し立てている本人が自己破産をどのように捉えているのかを判断していたように思います。
東京都心部だと、自己破産者の人数が多く、ベルトコンベアーの工場のような、流れ作業的な裁判になる事が多いらしいので、お住いの地域によってスタイルは様々だと思います。


勿論、自己破産後は何かしらローンを組まなければ購入出来ないもの(スマホ・車・土地や、家)などは自分名義では一切持てなくなる事を覚悟の上で申請をする事。


お金が無くて払えないからこそ申し立てをするけれど、申し立てをするにも最低五万円は裁判所に支払わないと申し立てがそのものができない事。
そして、その申し立てをする際には弁護士さんなどのプロにお願いしなければならないので、その費用もかかる事。
など、自分では予想していなかった場所にもお金が割とかかる事をあらかじめ想定することと、その後の自分の身の振り方(引っ越す・引っ越さないや、スマホや携帯などの購入や機種変更など)も計画的に考えた上で行わないと、その後の人生が自分の予想とは大幅に変わってしまうことも多いにあり得る事柄だという事を決して忘れないように、それでもどこをどうしても今後支払っていく事が出来ないであろう負債を抱えてしまい、身動きが取れなくなってしまったり、自殺しか考えられなくなってしまったりする前には手続きをする事をお勧め致します。


誰しも、借金をして気持ちのいい人は居ません。
その借金が自分の身の丈に合っているのか、本当に返せる見込みはあるのか?
今就いている仕事は継続してしていける仕事なのか。
そういった本当に人として基本的な事がすっぽ抜けてしまうと、無謀な買い物や無謀な借金を繰り返してしまうことになります。
そもそも、借金をする時点で無謀な状況ではありますが、本人からすると「後で仕事した分のお給料から支払える」という甘い考えから、借金をしてしまうのだと思います。
確かに働いたらその分のお給料は入ってはきますが、借金を返せば終わりでは無く、支出として「日常を過ごしていくための予算」が多かれ少なかれ必ず必要になってきますし、自分の予想外の出費も意外とひと月の中にチョコチョコ発生するものです。
借りた分の金額や、ライフラインの支払いや家賃などの基本的な支出を全て支払った上で残ったものがご自身の自由に使える予算となるのです。
結局のところそこを後回しにしていると、生活していく上で相当なしっぺ返しを自分で自分に喰らう事になるわけです。
そのことによって住居を失ったり、はたまた、ガスや電気や水道が止まって、壁と屋根はあるけど、家としては機能して居ない場所で生活を送らなければならなくなるでしょう。


そのようなことの無いように、どんな事も塵も積もれば山となる山となる。
精神を忘れずに過ごしていき、自己破産という手続きに一生縁のない人生を送っていきたいものです。

自由のその先

【完治宣言を受けた後の課題】

私はつい先日、自分の中でおそらく最後であり最大のパンドラの箱が開き、自分の頭の中で幼い頃の様々な状況を理解し、パズルのピースが、全て収まって「自分の闇の部分である過去」というパズルを完成させることができました。

 

精神薬については、主治医の方針もあり、もう何年も服用していませんが、睡眠導入剤については元々不眠に偏りがちな性質のため、現在も続けています。

 

一年程前から私自身が「主治医はどう考えても私より年上だし、カウンセラーさんについても、いつ何時カウンセラーという仕事を辞めるとも限らない」という考えが頭によぎるようになりました。

 

その時点での私はある程度の平穏な毎日を自分なりに過ごしつつも、時期によって落ち込み気味な周期があったり、何かしらの判断を下す時に、以前ほどでは無いにせよ「この判断は一般的な判断だろうか?もしかして、病的な判断に偏っていないだろうか?」と自分の判断に自信が持てない事が多々あった際に主治医やカウンセラーを頼り、意見を募る。

という行動でした。

勿論、現在もそういう意味ではある程度は自分の中で自分自身の判断で日々を送ってはいますが「これはちょっとわからないな」とか「ちょっとこれは大きすぎて自分では無理かな」という時などに主に医療機関を利用するようになっています。

この利用の仕方は決して間違っているわけではなく、むしろ自分を爆発させない為にはある程度必要な事だと思います。

 

ただ、本当の意味での「完治」とはおそらく、主治医やカウンセラーさんの存在が例えなくなったとしても「何かしら」の問題を自分、もしくは自分の周りにいてくれるプライベートな友人達に相談した後に、最終的な判断として自分でその「何かしら」の問題を解決し、その下した判断に自分で自信を持つ事なんだろうと思います。

 

いわゆる「医療機関への依存からの脱却」ですね。

別に医療機関を利用することに関して言えば全く悪いことではありません。

ただ、それらに頼るあまり、自分の下した感情や判断にいつまでも自信が持てない(無意識に)医療機関で確認しないと安心できない。という状況が良くないと、私は考えるのです。

最悪のケースとして、信頼している主治医とカウンセラーが医療機関の仕事を何らかの形で引退や辞める、といった事態になった時に患者である私が「お疲れ様でした。本当にお世話になりました。ありがとうございます」と心からお祝いし感謝の気持ちで見送れるのか、はたまた「え!そしたら私はこの後の人生誰に何を聞いて確認しながら生きていけばいいの?」とパニックに陥るか。。では雲泥の差が生まれる。というわけです。

 

完治宣言を受けたその後。

ご自身の考え方や、行動。

最終的な医療機関への依存心からの脱皮作業への取り組みを始めてからこそ初めての「完治」という言葉を受け取れるのかもしれません。

知らないどこかで

【無意識の攻撃】

人は誰しも、誰かしらと話す時に無意識的であっても、意図的にであっても、相手との円滑な人間関係の為になるべく相手が傷つかないような言葉を選んで喋る事があると思います。


勿論、気の知れている親友だったり、距離の近い親兄弟であれば、相手が傷つくであろう事であったとしても、間違った行動や思考、間違った方向に進もうとしている場合にはキチンと指摘する事も大切ですし、相手との距離感によっては遠慮なく物事を言える関係というのも存在すると思います。


そういった相手をお互いに思いやった上で、厳しい事を言っても縁が続く仲というのは素晴らしいものだとも、私は感じています。


ただ、世の中には相手の事を考えているわけでも、傷つけたいわけでもなく、無意識的にそれでも確実に傷つく言葉を口に出す人も多々存在するのも事実です。


相手が意図的に傷つく言葉を自分に対してぶつけている時は、例えその言葉がどんなに理不尽な言葉であったとしても、その言葉を口にしている本人も多少なりとも「相手を傷つけている」という意識やその言葉を発する事によって「そんな事を発言してしまった」という少なからず自己嫌悪や、その人自身も傷つく場合もあります。


無意識的に吐き出された言葉の場合に一番悲しいのは、言われた方はとてつもなく傷つき、どれだけ期間が経とうとその言葉をかけられた事実を忘れる事は出来ませんが、無意識的に発した方はなんの気持ちも理解していない為、何度でも同じように相手が確実に傷つく言葉をいつまででも何かしらのキッカケがあれば形を変えて発する。
という事実です。その場合に、言葉を投げかけられた方は、その度に傷つき、そしてその手当を自分でする以外に方法がありません。
相手に対して「言葉で傷ついた」と伝えたとしても、逆に相手は逆上して怒りだしたり「そんな事を言っていない」という言った・言わない問題に発展したり、どちらにしても、言われた方は余計に傷つきさらに深い傷を負う事は確かです。


ハッキリ言ってしまえばその「無意識的に傷つく言葉を発する人」に関して言えばその方の暴言が忠告やアドバイスによって直ることは決してありません。
大変残念ながら、人間「癖」のように無意識的に行なっていることに関して意識して直すというのはかなりの至難の技になります。


かと言って、無意識的に暴言を吐く人から物理的に離れられる場合には良いですが、人間関係的に何をどうしても離れられない縁や切る事のできない関係の人間という場合も勿論存在します。


その場合には、残念ながら、不意打ちに備えて該当する人と喋る際にはいつ傷つけられる言葉を吐かれても平気なように構えて付き合う、もしくは不意打ちにあったときに速やかに手当をできる方法を用意しておくほかありません。


そうやって自分で自分を守る方法をいくつか作り出しておく事が将来的にとても助かる事に繋がっていくのだと、私は考えます。

 

other life

【友達の人生】

自己肯定の低い人は「自分より弱い誰か」の面倒を見る事で自分が評価されている、求められていると思い、様々な意味で自分を犠牲にしてまで相手の事を優先しようとしてしまう場合があります。
かつては、私もそうでしたし、以前投稿した、だめんずが好きなタイプの人達も彼等と一緒にいる上で自分の中の承認欲求を満たしている事について触れたように思います。


病であっても、病でなかったとしても、無意識のうちに自分への自己肯定の評価の低さ故に、そのような行動に走る人多々存在します。


承認欲求が欲しいが故のそう行った行動による成り立つ関係は残念ですがいつか破綻を迎える事が殆どです。


そして、私もかつてはそうでしたが、例え、見返りを求めず、その友人の苦しみや悲しみや、生活そのものについても、力になれる事は出来るだけ力になりたいと、思って行動した時期も勿論ありました。
そういう関係を築いて残念ながら破綻してしまった関係もあれば、お互いをぶつけ合い、大喧嘩もした上で支え合うといういい意味で気を全く使う事なく付き合えるようになった友人もありがたいことに存在します。


そして、私がその事から学んだ事は、どんなにその友人の事を大切に思い、家族のように繋がりの強さを感じたとしても、やはり友人は友人でしかない。
という、事実であり、どんなに働きかけたとしても友人一個人の人生を私が友人という立場で背負って生きていく事は不可能だ。
という事実です。


これが、恋人同士や、婚姻関係が結べる相手だっとすれば「人生を背負う」まではいかなくとも、「人生を共に歩む」事は可能です。


しかし、友人は余程養子縁組でも組まない限り、法律的には他人であり、どこをどうみても友人=他人 なのは明白です。
その 他人 の人生を背負って何もかも面倒を見、共に生きていく。
それはおそらく病的な「共依存」という別の関係性となっている事でしょう。


それは、相手の人生を、背負っているつもりでお互いがお互いに利用し合っている。という、蓋を開けてみればなんとも悲しい関係に他ありません。


そして、健常者であっても、やはり友人の人生は背負って歩いていく事は勿論できません。


友人という立場だからこそわかる事。
恋人という立場だからこそ踏みこめる場所。
家族という立場だからこそ言えてしまう残酷な言葉。
などなど、お互いの、立ち位置や関係性によって言える事、出来る事、お互いの距離感。
ことごとく異なってきます。


何の見返りも求めず、その友人に尽くす事こそが本人の幸せであり、人生そのものという人も実際にはいらっしゃるかもしれません。
本人が心から幸せだと思うのであればそれは全く構わないと、私個人では思う事もありますが、友人は友人。
その大切にしている友人の人生そのものは自分のものにはなり得ません。
当たり前の事ですが、その事を理解せずに、頑張り過ぎながらも、必死に自分の人生だけではなく、友人の人生までも背負おうとボロボロになりながらも頑張る人を何人か見たことがあります。


残念ながら、それは不可能なのです。
そして、その関係がいつしか共倒れになったり、そのご友人が別の依存できる相手を見つけたり。。といった場合にその関係は途方もない大きさで自分の心の中に傷を残しながら破綻してくことでしょう。


友人とは、お互いにお互いが程良く距離感を保ちつつ、時に助け合い、時に厳しい事を言い、時に馬鹿馬鹿しい事で笑い合ったりしながらそれぞれの人生を歩みつつ、人生の途中途中で交わりながら関係を紡いでいく。
そんな有難い関係ではないでしょうか。


無理やり頑張り過ぎてせっかくの縁を断ち切るのではなく、自分にとって必要な縁を手繰り寄せ、大切に長く続けていく。
そんな大切なご縁が読んでくださる方にもあればなと思います。

 

勇気とは

【見捨てる勇気】

メンタル系の病の人に関わらず「自己評価」の低い人に良くみられる行動で「承認欲求を欲するあまり、友人や恋人、家族の為に奔走し、ボロボロになってしまう」行動を繰り返してしまう場合があります。
いわば「共依存」のような関係になって、相手の人に振り回されていたとしても、相手に尽くして居る自分や、相手に必要とされる自分の姿に酔ってしまい、結果的にお互いに、ボロボロになってしまう状況です。


メンタルを病んでいようが、病んでいなかろうが、その行動を行なって居る本人が心からその相手を支えることが幸せでHAPPYであるならば、私は別に構わないと思うのも事実です。
ただ、そういう「自らの自己評価が低いあまりに、自分の承認欲求を満たすために人に尽くす」という行為は、結局のところ見返りがなければ段々と不満だらけになり、尽くされて居る相手からすれば「頼んでもいないのにそっちが勝手にしてくれただけでしょう?」と感謝の気持ちすら持たれていない事も多々あります。


結果的にその関係は、悲しい結果に終わってしまう事が、ほとんどで、お互いがお互いに傷つけあってしまい、心の闇はどんどん深まるばかりなのは確かです。


以前の親との関係性で書いた事もありますが、たとえ親と子であっても自分以外の人間を変える事はほぼ、不可能に近いと私は思っています。
私の力で私でない誰かを私の中にあるビジョンにあるのと同じように操作することは不可能です。
ただ、例えば私の働きかけ、相手への態度によって、相手が相手自身の中で「変わりたい」と思えばそれは、変わる可能性はあると思います。
ただ、それはあくまでもその相手自身の気持ちが「変わりたい」と動いたからこそ変わるわけであって、周りの人間がいくら騒いだり、暴言やアドバイスをしたところで、相手の心へ響かない限り相手の根本は変わりませんし、むしろ「煩わしい事を言う嫌な人」として扱われてしまう可能性もあります。


人間誰しもいつ、どのタイミングで友人や恋人になる人と出会い、どれだけの関係性を深めていけるかはわかりません。
子供から大人へ成長していくに連れて、自分が属するコミュニティの規模も段々と大きくなっていく中で、友人もその分増える人もいれば、友人は昔からの知り合いのみで知り合いだけが増えていく方も居る事でしょう。
どちらが良いわけでも、悪いわけでもなく、古くからの友人であっても、残念ながら、人を利用するだけにしか思えない思考の人が、存在するのも事実です。
また、恋人となると自分自身の中に相手への好意が存在する為、あまり良くない事だと理解していても、相手のワガママに答えてしまう事も多々あると思います。


勿論、それが心から嬉しくて、相手に見返りを求めず、お互いに支え合っていける仲であれば、なんの問題もないと思います。


問題はそうではないと自分が気付いた時。
その時にその相手や周りの人の評価を気にして、その相手を見捨てる勇気が持てない時です。
「見捨てる、諦める、縁を切る」どれもマイナスな言葉ではありますが、他人を利用し、その事柄について「利用」して居ることに気づかず、利用できないと分かるとすぐさま風評被害を周りに吹き込んだり、非難の言葉を浴びせかけたり、突然縁を切られる人間も残念ながらこの世には存在するのです。
そういう人達は私の経験上でしかありませんが、大体にして距離感を保つのも苦手ですし、こちらが距離感を保とうとしても物凄いスピードで近づいて離すものかと食らいついてくるのも事実です。


そんな時は、先程上げた 見捨てる、諦める、縁を切る
の三つの言葉の中に当てはまるどれかで、自分の中で相手に見切りをつけて違う方向を向き、走って逃げてしまうのが一番です。
その方が相手も余計に傷つかずに済みますし、自分自身も守る事になり、完全に距離感を保てたり、逃げきれたり、縁が切れたり、相手に対して諦めがつけたり、してから自分の心理とじっくり向き合えば良いのだと思います。


次に出会えた人とお互いに、ベストの距離感で互いに助け合えるようなそんな関係性を築けるように、残念だった出会いは、その為の自分を見直す機会だったと思って進んでいければ最高にハッピーだと思います。


勿論、何かしらの縁で知り合った人なので、縁が切れたり、嫌われたり見捨てたり諦めたりする事は少なからず自分も傷つきますし、相手も傷つきます。
楽しかった思い出もあれば、相手をとても好きだった時間があったのも事実です。


ただ、その関係性から抜け出せなくなってフト気付いた時に身動きが取れなくなり、心身共に疲れ果ててしまうと、病でなかった人でさえも、病になってしまったり、元々病んでいた人は以前とは比べられないほどに症状が悪化してしまう事がほとんどです。


そういう悲しい事が起こらないよう、マイナスイメージの言葉や行動にも意味がある。
というお話でした。

暗闇の中で

【手当の仕方】

 

昔、メンタルの調子が一番良くない時期の私は本当に真っ暗闇の中を必死にどこが前なのか下なのか、右なのか左なのかもわからないまま、もがいてどうにかしてとにかく前へ進めないものかとがむしゃらに闘っていた時期があります。


その頃には、例えば誰かと接していて不要意に傷つけられる言葉を投げつけられることもしばしばありましたが、私は傷つける言葉という矢がどこから放たれるのか、そして、どこから狙われているのか、それよりも自分が攻撃されているのか、怪我を負っているのかすら気づかない程にただがむしゃらにもがいていた時期が年単位で存在しました。


決してその時期が無駄であったとは思いませんし、その時期のおかげで、自分が傷を負っている事、手当が必要な事。
攻撃して来る言葉を放つ人物が誰なのか。などを把握する事が出来るように思います。


ただ、気づけるまでにかなりの時間を要し、その分手当も遅れ、結果的にメンタルの治療が長引いた。
という結果も事実です。


今現在の私はほぼ穏やかな日々を、過ごして暮らせていますし、勿論親と交流する上で不要意に傷付けられないようになるべく物事を把握して、攻撃対象になりそうな事柄から逃げる力もつきました。


しかし、脳みそが様々な症状を、乗り越えて「大丈夫だ」と判断すると昔辛かった記憶をわざと思い出させないようにしていたブロックの鍵が外されてしまう事もあるので、自分ではそんなに傷ついていなかったと思っていた事柄を不意に思い出して、急に悲しくなったり、苦しくなったり、また、傷つけて来る当人と接しているうちに昔を思い出して気分が悪くなってきてしまう事もあります。


言ってみれば「古傷が痛む」感じになるのです。
もしくは、治っていたはずの傷にまた膿が溜まって切開して膿を出してあげないと、どんどん膿が溜まり続けていつかまた、破裂してしまう場合もあります。


そう言った場合に、自分でその膿を出して手当をする仕方を把握しているかしていないかによって、再度通常運転の生活レベルまで浮上してくるまでの時間が異なってきます。


手当の仕方は勿論人それぞれ異なります。
例えば、何かものスイッチを切ってとにかく眠る。
という人もいれば、誰かに話を聞いてもらう。
という場合もあるでしょうし、とにかくわんわん泣く。
という場合もあるでしょう。


気分転換と若干似ているようにも思えますが、気分転換と違うところは「なによりも自分の感情に素直に行動する」事でしょうか。
普段、穏やかな生活を送っていればいるほど、気分の落ち込みや、自分が意図しない涙が突然流れてくるなど、通常であれば、マイナス要素に見える事柄が起こるとなんとかその状況を打破して元の穏やかな生活に戻るようにと、不安をなくす頓服薬に頼ったり、泣く事が悪いことのよう感じて、泣くのを我慢したり、周りに勘付かれないように明るく振舞ったりしてしまう場合が多いのです。


そうすると、表面上はまるでいつもと変わらない状態に戻ったように自分では思えても、結局はその時に蓋をしてしまった傷は自分の気づかないうちにジクジクと悪化し、知らない間に余計な膿を更に溜め込んでしまう事になりかねないのです。


私も、つい最近までは気分が落ち込んできたり、意識していないのに急に涙が溢れてきてしまったりした時に最初は「これは異常だ、何か対処してこの落ち込みや涙を止めなくては」と考え、主治医に頓服薬を処方してもらえないかを打診した事もありましたが、主治医の答えはノーでした。


それは、脳みそがリミットを解除した為の過去の悲しみであり、やっと自身でその事実を受け止めた瞬間でもあるため、存分に悲しみ、泣き喚き、そして落ち込みましょう。
と言われたのです。
私はとてもびっくりしました。
まるで、自分の病気の状態が悪化して後戻りしているんじゃないかと思うほどに調子が悪くなる時期もありましたし、食事をしている時に何も意識していないのに勝手に涙がボロボロと流れてきた事もあります。


それでも、それは過去の暗闇の中で必死にもがいていた時の涙や悲しみ、落ち込みとは明らかに種類の違うものだ。
と、恐る恐る感情の流れるままに眠り続けてみたり、涙が溢れてきても無理に止めず、そのまま泣いてみたりしたところ、悲しかった事実をきちんと再認識し、受け止め、冷静になれる事に気付きました。


悲しい事柄や昔の記憶がそのように自分なりに手当てをしたからと言って、悲しみが消えるわけでも、無くなるわけでも勿論ありません、悲しいものは悲しいのです。
でも、それで良いのです。
悲しい事柄を悲しくないと自分の感情に蓋をする事で病気になった私たちにとって、例え10年前のことであっても、きちんとその事柄を悲しい事と認識して悲しむ事が出来たことこそが、治療の効果の現れなのです。


そうして、自分の手当てをした後は、浮上時間が昔に比べて遥かに早く、そして自分自身もほんの少し気持ちも楽に、人間的に成長して通常の生活に戻れるのです。


これを読んでくださっている方々が、ご自身なりの手当てを見つけられ、そしてイザ、脳みそのリミットが外れて悲しみが襲ってきた時に、存分に悲しむ事が出来ることを願っております。


多分、その悲しみの闇は昔の真っ暗闇とは全く違うものなのですから。