あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

NO MUSIC NO LIFE

【米津玄師さんと宇多田ヒカルさん】【私個人の思想と感想】

私は昔から音楽が好きです。
幼い頃から色んなジャンルを聴いていたものの、そのアーティストさんは「凄い人が出てきたな」という感想のお二人について書きたいと思います。


宇多田ヒカルさんは、言わずもがな時代を彩っていた小室哲哉氏が彼女が出てきた当時に引退を考えた程の人物で、声も、歌唱力もそして僅か10代の彼女が全て考えたとは思えない程に達観した歌詞と楽曲。
ビジュアルもとてもお綺麗で私は一瞬にして虜になりました。


そして、数年前から耳にするようになったと思ったら今や神と崇められる程にまでになった米津玄師さん。
彼の歌を始めて拝聴した時に「こんなにも、自分が思っていた事を具現化できてしかも、作詞も作曲も出来るのかー!!」と衝撃を受けた事を覚えています。


宇多田ヒカルさんは、私が20歳なりたてくらいにデビューなさって、米津玄師さんは私が発病してある程度落ち着いてからデビューなさってました。


お二人の作品には独特の世界があります。
お二人共に(ここからは、私の勝手な感想が多分に含まれる)とても辛い思いや、苦しい思いをしたり、もしくは本人がそうだと感じてなくても、心の何処かで感じようとせずにでも静かに傷つきながら育ち、その闇を抱えながら生きている。という事。


お二人の違いは多分音楽を作る年齢に達した時のその苦しみの位置が彼らの中で何処にあったのか??
そこに違いが出て来るんだろうなぁ。
と、今現在メンタルのメンテナンスがある程度落ち着き、今は共存して生きていけるレベルになった私だから見える世界がありました。


宇多田ヒカルさんはいわば「哲学」の域にご自身の苦しさや悲しみを持っていき、音楽を作る際にその部分を開いて作っているんだろうなぁ。
そこに、彼女の楽曲としての才能が加わってJ-POPと呼ばれるジャンルよりかはソウル&ブルースのジャンルにカテゴリー分けされているのかもしれない。。(音楽のサイトやアプリだと、たまにその様なジャンルに入れられている事を度々目にする)


米津玄師さんの場合は、ある程度の彼の中での悲しみや苦しみの昇華の上で音楽を作る過程に辿り着いてはいるものの、まだまだ、生々しい傷跡なので、歌詞がとてつもなくリアルで、人によっては「脳みそ揺すぶられた」感覚になったり、その楽曲をなんの気なしに聴いて自分の感情とは関係なしに涙が出てきてしまう人もいるのかもしれないなぁ。。


という、感想でした。


で、何が言いたいのかというと、今現在、米津玄師さんが中高生に大人気なんだとか。
勿論それはいい事だと思うし、別に何ら変な事でもない。


ただ、なんていうか、私の主治医もよく口にするけれども「現代の若い人達は昔に比べて病みやすい環境が整い過ぎている」という懸念。
誰だって、大なり小なり悩みや苦しみや闇は勿論人間として抱えていて、それが当たり前なのだけど、多分、米津玄師さんに共感する中高生が山のようにいるということは、メンタルを病んだ人達に近い心の闇を抱えながら生きてる中高生がめちゃくちゃ多いということなんだと思う。


別に、昔からメンタルの病を抱えていた人は山程いるわけでおかしい事ではないのかもしれない。
ただ、これだけ「生まれてきちゃってごめんなさい」的なメッセージ性の強い歌が好まれるっていうのは、今の中高生が多分、相当生き辛い日常環境なんだろうなぁ。。と思うのです。


別に昔が良かったとか、そういうわけではなくて、スマホだって、ネットだって十分に役立っているし、今や必需品って人も多いと思う。
多分、中高生が至りやすいのは「スマホを活用しているつもりで、それらに操られてしまいがち」な所が年齢的な事や、本人の性格や、成長度合いで強まるんだろうな。。
という事。
楽しんでいるつもりで使っているSNSが実はストレス源になってたり。。
「だったら使わなきゃいーじゃん」なんだけど、それが中々生活の場面で出来なくなってたり、使わなければ人の輪に入れなかったり、勿論、別に1人が好きって人ならいいと思うし、気にしなければ良いのだろうけど、多分苦しんでいるのは、中間層の誰にでも人当たりよくて一見なんの問題も無さそうな子。
が、親にも誰にも言えないで苦しんでるのかもなー。
という、私一個人の勝手な考えですけど、だからこそ、今のこのタイミングで米津玄師さんがデビューなさって、沢山の人に支持されるんではなかろうか?
と勝手に思ってしまうのです。
米津さんの音楽は曲もとても素晴らしくて、独特のリズム感とか、音楽的世界のセンスも今までにない感じの音を創り出す方なので、ただ、単に音楽として好きって人も沢山いると思うし、流行ってるから好きって、中高生も沢山存在すると思う。
何より、彼の曲を聴いて自分の感情を具現化してくれてそれでストレスが軽減されている人も沢山いるだろうし。。


どちらにしても、私が一個人としてこの2人のアーティストは多分生涯忘れることのない、大きな存在を示すアーティストな事に変わりはない。
お二人がそれぞれの位置でそれぞれの思想や、溢れ出した想いを色んなメロディーに乗せて綺麗な音楽を奏でるのをまだまだ、楽しんでいきたいと思う、今日この頃です。

 

 

生きてる?

ヴィーガンブームについて】

先日、久し振りにTVのニュース番組を見ていてビックリした事があった。

海外でヴィーガンブームに拍車がかかって、ヴィーガンの人々が精肉店などを目の敵にし、暴徒化して精肉店を襲ったという。。。

 

私は無添加主義でもないし、オーガニック信者でもないし、野菜もお肉もお魚も乳製品も卵も海藻類も食べ物は何でも好きな方だ。

別にベジタリアンの人が悪いとか、ヴィーガンの人々の事を異常だとも特には思わない。

「好きにすれば良い」

ただ、それだけだ。

私一個人の感想というか、疑問として幼い頃からあるのはベジタリアンヴィーガンの人々の中で盲信的な人の中には「肉や魚は命を奪っている行為で、残酷だから、私はベジタリアン(もしくはヴィーガン)になったんだ」という意見を持っている人達の思想だ。

「命を奪って生きていくのなんて、自分勝手で、傲慢で、残酷だ」というのも、そう言う思想の人達に多く「それは地球を傷つけている」という思想の持ち主の人々が割と多く存在している。。

という、あくまでも私の感想なんだけど、では、彼等にとって「植物」は「命」ではないのだろうか??

という疑問。

確かに動物のように血も出ないし、種類によっては収穫しても根っこさえ抜かなければまた、葉をつけ茎を伸ばし、再度収穫させてくれる有難い作物もあるし、作物によっては根っこそのものを食して楽しむものもあるので、再生する。。というのとはまた違う植物も存在する。

 

もし「動物を食べることは地球にとって悪い事だ!」と言うなれば、おそらく「人間」の存在そのものが、地球にとってはとんでもなく悪い事であり、はっきり言ってしまえば地球主体で見たらば人間なんて消滅してくれた方がよっぽど「地球」という惑星からしてみれば、星として永らく存在し続けることも出来て、環境破壊もなく、清々すると思う。。

 

彼らの言う「命を奪って食べる事は残酷だ!」が言葉通りなのであれば、彼らは集団自殺する以外に彼らの指す「残酷さ」から逃れられる事は皆無ではないのか?とも思うし「命を奪って生きていくなんて、傲慢だ!」と言いながらも平気で植物の命は奪って生きているのだから、彼らの言う「傲慢さ」は存分に発揮されて生きているようにも、私一個人としては感じるのだ。

 

例えば、元から「食肉用」としてのこの世に生まれ育ってきた牛や豚や鶏を「残酷だから」という理由で山や野に放して「自然に戻すんだ!」なーんて思想を割と本気で持っている方もチラホラ見かけるけれども、完全にペットとしての育てられてきた猫や犬をイキナリ野や山に放して生きていかれるのか?と言えば勿論生きていけないのと同じで「食肉用」に育てられた動物達だって同じ事だ。

人間で例えれば、彼らの言う「人間本来の形で生活しなければ」と言う主張。

彼らの指す「本来の姿」が一体どの時代の「人間」を指しているのかは疑問だけど、おそらく電気もガスも水道もなく、家も勿論自分たちの手で建てるところから始め、日が昇ったら目覚め、日が落ちたら眠る。

多分そんな時代の事を指しているように思うけれど、果たして彼らにその生活が本当に出来るのか?

と言えば多分、できないと思う。

もし、本気でやりたいなら、やりたい人達だけで集まってやれば良いと思うし、その思想が必ずしもいけない事だとも思わない。

どっちが良い、悪いではなくて、人間にも動物にも、植物にも様々な種類や個性があるように、思想はそれぞれ個々に存在するのに、その人達が信じているものが絶対になると「それ以外の思想」や「その思想を否定するもの」を「絶対的な悪」と決めつけて、自分達の思想を押し付けるのが問題だと私は思う。

 

胃腸が弱くて動物性のものを口にすると胸焼けして吐いてしまう体質の人もいれば、何かしらのアレルギーを持った人が動物性のものを口にする事が出来ないって人も居ると思う。

その人達に対して「なんで動物性の物を食べないんだ!不自然だ!!」と叫んでも意味は無いし、無理やり食べさせても良い事は何もない。

ただ、ごくごく一般的に植物性の物も動物性の物も口にできる体質の人で、少しでもその「食材」となってくれた多くの命に敬意を表するのであれば、その食べ物を口に出来たことを命に感謝しながら美味しく頂けば良いと私は思う。

 

作ってくれた人にも、そして、食材にも、自分が口にするすべて物に関わった命や人間に感謝して、美味しく頂く。

これは、きっと「提供」した側からすれば一番の喜びではないだろうか?

 

様々な食べ物を口にする事ができる幸運に対して様々な命や人の手が関わっている事、その事自体に感謝して頂く。

 

そんな、シンプルな事なのに。

何故か皆んなできなくなってしまっているようになっている。

そんな気がしてならない。

 

何をもって「命」と判断して「残酷」とするのかは、人それぞれだ。

 

動物達は生きていて、植物達は死んでいるのだろうか?

 

それも、また人それぞれの判断基準があるとは思うけど、脈々と受け継がれる命があるからこそ、木々は毎年花を咲かせ、実を実らせて、また、種となり芽を出して、大木となっていく。

それは、ベジタリアンヴィーガンの人々にとっては「生きていない」「命」ではないのだろうか?

 

 

魔法使いの正体

【女子力??】

皆さんはよく、女友達と集まってお茶をしたり、お喋りをしたり、電話で会話をしたりする機会がある際に「貴方は女子力高いよねー」なんて言うことはありませんか?

 

そもそも、私は「女子力」の定義がなんなのか?すら理解できていないのですが(笑)そういう風に言ってくる人に限って「どうやったら、そんな風になれるのー?」とか「どうやってそんな風に痩せる事が出来たのー?」と聞いてくる女性が多いのも事実です。

別に聞くぶんには全く構いませんし、聞かれたら私も、自分がしていた事を素直に答えます。

例えば、私はストレスがかかると食欲に現れやすく、体重の増減が10キロ単位で変わりやすい人間なので、増えた体重を元に戻すにはそれなりに努力が必要です。

無理のない程度で継続して続けられる運動をして、食事はあまり制限しすぎず、バランス良く食べるようにする事や、総量を少しずつ減らしていけるよう無理をしてストレスを感じないように、自分の目標体重まで落ちるように日々行うだけです。

実際に私はストレスがかからない程度の散歩とバランスの良い食事を1年続けて10キロ程体重を減らすことに成功しました。

 

ただ、それを聴いてくれた彼女達にそのまま答えても、彼女達は納得してくれません。

というか、おそらく彼女達が期待している「もっとなんか楽して速効性のある痩せ方は無いのか?」という質問に移ってしまいます。。

 

これと同じく、私は普段はあんまりキッチリしたお化粧をしません。

これは、ただ単に肌が元々弱いのもありますし、お化粧自体は嫌いでは無いけれど、然るべき時に然るべきメイクをすれば良いと思っているからです。

(例えば、女性同士の集まりとか、特別な日のデートとか。。。)

で、そんな時にも必ず言われるのが「どうして普段あんまりメイクしていないのに、ちゃんと出来ているのか?」という質問。。

多分、、彼女達の言動を見ていると(あくまでも私の周りのそういう質問をしてくる女性)日常的に継続してキチンとスキンケアをしていなかったり、自らメイクというものに興味を持って、例えばYouTubeだったり、雑誌だったり、ビューティー系アプリだったり。。媒体はなんでも構いませんが、そういうものを利用して自分でメイク方法を試してみたりだとか、日々のスキンケアを面倒だからと言って行わず、何かしら特別な事がある前日だけちょっとパックとかを慌ててしてみて、当日吹き出物ができてしまっていたり、頑張ってネイルサロンに駆け込んで見たり、自分でマニキュアやジェルを塗ってみるも、「手」そのもののケアを全くしていないので「爪」単体は綺麗だけど、全体的に見るとボロボロで、彼女達のイメージと異なる。。という事が少なくありません。

 

どんなに著名なヘアメイクの人が頑張ってメイクをしてくれたとしても、大元のお肌がボロボロであれば、それは多分彼女達の期待を上回る出来映えにはならないのは、当たり前だと思うのですが、何故かそういう事を聞いてくる女性達は「簡単で速効性があり、魔法のように肌荒れを治してくれる方法」や「そのファンデーションを塗ればたちまちお肌が綺麗に見えるに違いない!」と割と本気で思っているようで、私がありのままの自分が日常的に気をつけている事を伝えても、とてもつまらない顔をします。

そして、結果的には「貴方は女子力が高いからそういう風に(メイクもしくはダイエット)が成功するんだよね」というような言葉をかけられます。

 

何事もそうだとは思いますが、シンデレラの如く魔法使いの魔法によって一瞬にして綺麗になれる人なんて殆ど夢の世界の話では無いかと思うのです。

メイクにしても、ダイエットにしても何よりもやっぱり土台が大切。

ダイエットに関して言えばどちらかと言えば「メンタル的」な部分の強さも要にはなってくるとは思いますが、何よりも積み重ね。

メイクにしたって、どんなに高級なコスメを使ったとしても大元のお肌がボロボロであれば、出来上がりは「それなり」なのは当たり前ですし、誰しも「自分に似合ったメイク」が個々で変わってくるのは当たり前なので、一度も包丁を持った事のない人間がいきなりフレンチのフルコースが出来るはずないのと同じで、何の練習も、何も勉強もせずして、イキナリ女優ばりのフルメイクがバッチリ綺麗に出来るはずが無いのです。

が「女子力!!」を連呼する人達と話していると、どうも「毎日頑張るとかそういう面倒くさいのは自分では出来ないからもっと楽して何とかできる方法を教えてくれないだろうか?」と言っているようにしか聞こえません。

 

そして、その日々の積み重ねの結果として綺麗なメイクだったり、ダイエットに成功した人に対して「良いなー」「どうやって痩せたの?」「貴方と同じファンデーションを使えば同じ様にお肌が綺麗に見えるんでしょう?」なーんて甘い期待を抱いて話しかけてきます。

多分、彼女達からすれば、久し振りに会った私が10キロ以上痩せていて、普段はあまりしていないメイクを丁寧にして、いつもは余り目立たないポジションにいるはずの人間がなんだかとってもイメージと異なっていて、まるで魔法使いに魔法でもかけてもらったんじゃないか?という風に見えているのだろうな。。と思います。

が、魔法使いなんてものは勿論存在せず、日々自分の意思を強く持って、ストレスを感じないよう、むしろスキンケアなどに関しては「習慣化」するようにして、過ごした結果として痩せた身体と、自分に似合うメイクをする際にベストコンディションのお肌で挑めたので期待通りの結果としてのメイクが施せた。

というわけです。

 

いわば、当たり前の結果であり、それをしても結果が出ないのであればどこかしらに何かしらの欠点や、身体やお肌に合っていない方法を取っていたり、過度なストレスを知らない間に感じている状態なのかもしれません。

 

彼女達が「女子力」をまるで魔法の言葉のように使っていますが、魔法使いの正体は「単なる日々の積み重ね」でしかないのです。

それが「女子力高い」事なのであれば「女子力」を連呼されても違和感は感じませんが、なんとなく別の意味で使われている言葉に感じてならないのは私だけでしょうか??

女子力。。。浅いようで深い、難しい言葉ですね(笑)

 

偉くて偉くない

【役目とは】

ある時、友人と電車に乗っていた時に建築業の方が向かいの席でどっかりと脚を広げて座られて居たのを見て「なんで、ああいう職業の人達って皆んな威張ってるのかな?別に人として偉くもなんともないのに!」と発言していた事があり、とてもビックリした覚えがあります。

 

確かに、たまたまその場にいた建築業の方はマナーが悪かったかもしれません、ただ、マナーが悪い=偉くもなんともない は結びつかないし、私からすればそれぞれの職業はどれも、どの職業は偉くて、どの職業は大したことない。。なんていう差は特に無いと考えていたからでした。

建築業の方が居てくれるからこそ、私たちは屋根や壁のある「家」という建物に住む事が出来、具合が悪くなったら駆け込む病院も、国を動かしている政治家の人達が討論を交わす場も、その建築業の方々が働いてくれなければ当たり前に行えるであろうはずの場所が存在しなくなり、仕事として100%満足のいく仕事が出来なくなるわけです。

 

じゃあ、無職な人はどうなのさ?

となりますが、例えば「お母さん」という肩書きは、世間一般的に見れば「専業主婦」や「専業主夫」だったり勿論「兼業主婦」や「専業主夫」も存在しますが「職業」という点で言えば「無職」の部類に属する人が存在します。

そうだったとしても「お母さん」や「妻」という存在が居なければ「お父さん」や「夫」という人は朝起きてから会社に行くまでの間の朝食や、会社に来ていくワイシャツが当たり前のように洗濯されていたり、靴下や、ネクタイがちゃんと清潔な状態で用意されていることはないでしょうし、その全てを「お母さん」や「妻」が行なってくれているからこそ「家庭」という仕組みが正常に機能してまわっているという事がしばしば忘れられてしまい「お母さんがご飯を作る事は当然の事」だったり「部屋が掃除され、洗濯物が洗濯されて清潔な状態を保たれている事」が当たり前の事の様に感じてしまい、外の会社でお勤めしている人だけが「偉くて立場的に上」というように扱われる事も少なくありません。

 

私のように、行政の助けを受けていかなければ自力で生活できないような人間であっても、必要としてくれる「誰か」は存在してくれていて、私は私という人間として存在する事によって、私を必要としてくれる人達が安心してくれたり、癒されてくれたり、明日を生きるエネルギーを蓄えてくれたりするわけです。

勿論その逆も然りで、私は私を必要としてくれている人々の存在のお陰で自分を必要以上に卑下する事もなく、私もその人々から元気や勇気や、生きていく力を貰って生きています。

 

仕事や、立場や、肩書きというものは確かにその人を映し出す重要な手がかりの一部にはなりますが、それによって「この人は偉い人」「この人は職業が大した事ないから雑に扱ってもいい人、偉くもなんともない人」なんて分類をしていたら、結果的にはその人を映し出す「一部」だけを見て決めつけている事になり、その人の仕事の内容や、成果、そしてその人の人となりを知らないままに勝手に優先順位をつけて周りの人を扱い、知らない間に自分にとって大切な人を失ってしまったり、自分が勝手に「偉い人」と決めつけていた人にとても傷つけられてしまったり。。

と、残念な結果を迎えてしまう事も少なくありません。

 

勿論、残念ながら人を殺してしまったり、罪を重ねてしまう人間も存在しますが、基本的に「無駄な人間」きこの居なくても良い人間」は存在しないと私は思います。

人間は、本気で死のうと思えば割と簡単に死んでしまう生き物で、私も実際に友人を自死という形で失った事があります。

私自身が病気の症状があまりにも酷い時には自分で自分の命を断とうと試みた事も本気でありますが、結果的に私は現在も生きているので、亡くなってしまった友人と何が違うのかは未だ私にも分かりませんが「何かしらの生きる意味」があるから、今も自分は生きているのであって、それは、決して独りぼっちで生きているわけではなく、周りの色んな人達に支えられて「生かされている」のであろうとも思います。

それならば、生かされたい人命を大切に、無職である自分をいつまでも嘆いたり、悲しんだり、蔑む前に与えられた範囲の中でいかに楽しく、人生を送っていくのか、それがきっと私に与えられた最大の課題なのではないだろうかと思い、今日も生きています。

 

どんな事でも、不平や不満を言うのは容易い事ですが、自分が置かれた状況の範囲内でいかに楽しく、自分を楽しませながら幸せを感じて生きていけるのか、は割と難しいけれど、とても楽しく、周りにも嫌な気分を撒き散らす事なく、自分も楽しく幸せを感じながら時を重ねていく事が出来るのはとてもありがたい事だと思いますし、実際にハッピーに過ごせます。

 

私は未だに自分が何の為に存在しているのか、どんな役目を担ってこの世界で生活していけているのか、、については解明できていませんが、悲劇のヒロインよろしく、自分を憐れみながら生きる時期も通り過ぎて、今はとても楽しく日々を送っています。

どんな職業にも、どんな人間にも何かしらの意味はあって、どんな仕事だから偉くて、どんな人間だから偉くない。

なんて事はありません。

 

自分に自信を持つ事はとても難しい事ですが「自分は存在してはいけない人間なんだ」と思わなくなるだけで眼に映る様々なものや人や時間が自分の中の気持ちがだいぶ過ごしやすくなる事は確かです。

 

いらない御土産

【自己破産の副産物】

 

自己破産の手続きや内容そのものについては以前記事に致しましたが、自己破産後に予想だにしない副産物がある事を経験したので、今日はそちらを書こうと思います。

 

私が自己破産手続きを終えて2週間〜1ヶ月程経った頃に、一度も利用した事もないよく知らない業者から宛名が手書きの茶封筒の封書が送られてきました。

念の為中を確認してみると「自己破産や、生活保護などで賃貸契約がスムーズに出来ない方向けサービスのご案内」というなんともデリケートであまり口外していない事柄を何故か一度も利用した事のない業者から、しかも私の住所自体も限られた人にしか教えていない状態なのに届いた郵便物で大変驚きました。

 

ただ、この時代「情報漏洩」なんていくらでも起こりうる事例なので、どっかからそのような情報が流れるシステムでもあるのかなぁ??とも思ったものの、少し気持ち悪い郵便物に感じられたので、担当だった弁護士さんに問い合わせてみたところ、どうやら自己破産をした人の情報が集まる「信用者情報」に載ったブラックリストはそういう人をターゲットにしたサービス展開をしている不動産的な業者に自動的に流れる仕組みになっているらしく、殆どの自己破産をした人の住居へそのような郵便物が一定期間は届いてしまう。

というお返事でした。

 

多分、担当の弁護士さんからすれば日常茶飯事の事でしょうから、特に手続き前や手続き後にそのようなお話も聞いていなかったので、イキナリそのような郵便物が彼方此方のしかも一度も利用した事のない業者から届く現象はかなり不安になる事例でしたが、原因が分かれば無視していればそのうちにそのような郵便物も届かなくなるという事も知れたので、私の気持ちの方も落ち着き、特に気にならなくなりました。

 

今後、自己破産を考えている方は、破産申立が終了し、全て終わった!!

と感じてホッとした頃にこのような郵便物が届く事を知っておくと、不安が減って良いかもしれませんね。

縛るのも縛られるのも

【私なりのヒモ論】

先日、20歳なりたて位の男子二人組が同じ飲食店の隣の席で「あー!!

ヒモになりてぇなぁ!!」と言うのを聞いて「そんな事思うんだ!こんなに若くから。。」と驚いた私です(笑)
どうやら、彼らは学生さんで、親の仕送りを貰いつつアルバイトをして学生生活を満喫している様子。
片方の男子に限ってはバイトばかりしていて、あんまり学校に通ってすらいない様子でした。


「ヒモ」というと、交際している女性が働いて、彼の生活費全てをまかない、二人で生活して行くのを自ら選んでいる男性。
の事を一般的には呼びますが、過去にだメンズばかりと付き合ってきて、大体の男性を「ヒモ体質」にしてしまった私なりに今その状態から脱したから故の気づきた事があります。


「ヒモ」になりたがる男性に多いのが「自分の現在の生活や人間としての質を下げずにただ単に働かなくても良いように女性に養ってもらう事」と捉えがちですが、それが出来るのは江戸時代のトップの花魁のように、知性や、一般常識や、品格の良さなどを身につけている男性であれば、質の良い女性が面倒を見てくれるという事例は存在すると思います。


ただ、一般的に「ヒモ」を育ててしまう女子は、どちらかといえば品格などにこだわりがなく「この人私がいなくちゃダメなヒトだわ」と思い込み、無意識に彼に対して見返りを求めながらも健気に彼の為に働く女性が多いという事実。そういう女性に養ってもらう「ヒモ」の男性は、女性の質や品格のみならず、自分自身の品格や質も落としているという事に気付かない事です。
気づかないばかりか「俺モテるし」位の勘違いをし、男性が女性に頼れば頼るほど自分の質を下げていることに気づきません。


要はそれなりの男性にはそれなりの女性しか寄ってこない


という事です。勿論逆も然りで、それなりの女性には、それなりの男性しか寄ってきません。


そんな20歳ソコソコの若い男子が闇雲に「ヒモ」になれれば、楽な生活できるのにー!!という願望を語っているのを横で聞いていて、クスリと笑ってしまった私でした。


私も昔は自分の承認欲求をみたしてもらうためだけに、ヒモ体質の男性とお付き合いをしては別れ、また、そういう男性を見つけては付き合い。。を繰り返していました。自分を認めてもらうだけの欲望の恋愛はどちらにしてもあまり良い形は生まれてきません。
歪んだ愛になってしまったり、片方が冷めても、片方が依存してしまって中々別れられなかったり。。


自分の周りに居てくれる友人や恋人などはその時々でその人達との関係性の密度が変わることがよくあると思います。
私は、彼らを「その時々の、自分を映し出す鏡のような存在」と思うようにして、付き合って行くうちに、自分にとって必要な人、そうではない人(例えば利用するだけの目的で近づいてくる人など)を段々と見分けられるようになり、結果的に自分自身の質の底上げをした結果、今までにない私にしては上質な男性とお付き合いする事が出来ているという事実でした。


「ヒモ」は一見とても楽そうに見える生き方ですが、女性に依存して生きて行くため、彼女たちにいかに嫌われないかに焦点を当てて常に気を配り、彼女たちの機嫌を取り、彼女たちにいかにご奉仕するか。
そして、他のヒモになりたい男性といかに違っていて秀でた場所を彼女たちにアピールし続けるか。
にかかっている生活ともいえます。


なので、男性の欲望のままに生きる為のヒモ関係は大体がすぐに破綻し、また次の女性を探す。。ということの繰り返しの、生活。
それは、若い頃はなんとかなっても、歳を重ねる月日の中で、ちゃんと人間としての厚みを持たないままに歳を取った薄っぺらい男性は年老いた時に、残念ながら誰からも相手にされないでホームレスなどになる他無くなるでしょう。


ヒモとは、恐らく自分の人間としての品格を決定づける、楽なようでいて、厳しい生き方だという事を、今の若い男性達に知ってもらうとともに、そんなだめんずばかりを好きになってしまう女性の方々は、ご自身の品格の底上げをしてみると、また違った世界が目の前に広がるかもしれません。

すっからかん

【自己破産について】

久し振りの更新となりました。
暑かったり、寒かったり、あちらこちらで災害が起こってしまい沢山の犠牲になった方々達に心からご冥福をお祈り致します。


今日は、自己破産について書こうと思います。


自己破産は、基本的に原則として一生に一度しか出来ない。という取り決めになっているらしく、2回以上の自己破産手続きが認められることは稀です。


自己破産手続きをすると当然のことながらブラックリストにも載りますし、クレジットカードや、正規ルートでの借金も勿論出来なくなりますし、身近な所で言えば携帯電話の新規契約や、機種変更の際の割賦手続きも審査が通らなくなるので一括で購入する以外に方法がなくなります。
なので、今現在何処かしらの携帯会社と契約して携帯電話を、所持している方はその会社との、契約を解除したり絶対にしない方が身の為です。
格安SIMなどの格安スマホ会社も現在では多数進出しており、確かにとてもお得な値段で使う事が出来ますが、自己破産後には確実に契約できなくなる上に、そのような格安SIMは支払い方法が全ての会社でほぼクレジットカードのみとなっているので、そもそもの契約ができないどころか、万が一にも契約まで漕ぎ着けても本人名義のクレジットカードが一枚もなければ利用する事すら出来ないただのガラクタになります。(デビットカードのような形式のクレジットカードは殆どの格安SIMの会社で支払い方法に選べないようになっています)


後、自己破産をした後に困るのは、賃貸物件を契約する際の保証会社の審査に通らなくなる事です。
ブラックリストに載った情報は信用者情報局という場所で5年間保管され、その後に情報自体が破棄されるものの、クレジットカード会社や、携帯などの通信会社、不動産などの会社などどれも信用者情報のブラックリストに掲載された人のデータは危険人物としてほぼ永遠に近い形で各社で活用され独自の審査基準を設けて契約の際に審査にかけるので、今住んでいる場所から引っ越して新しい場所で契約をする際に何処の不動産会社とも契約できずに済む場所が確保できない。
なんてことも考えられます。


なので、安易にあちらこちらで借金をしまくったり、通販でかいものをしても後に買った商品の支払いを怠ったりし、支払い能力が無くなった際に自己破産を安易に考えるのは大変危険です。


また、自己破産手続きの際に確実に最低手続きをする料金として五万円を支払わなければ、自己破産の申し立てが出来ない仕組みになっています。
お金が無くて今までの分も支払うことができないから自己破産するのに、その手続きにも、そこそこのお金がしかも一括で必要になって来ます。


また、自己破産をすると決めてから申し立てをするまでの直近2ヶ月分の家計簿のようなザックリとした自分の収入と何にいくら使ったのかを明記した書類の提出。
自分が所持している銀行の通帳のコピー
3ヶ月以内の住民票や、生活保護を受けている人であれば受給者証書類なども提出する必要があります。


その上で、何をどのような理由で借金をし、もし、借金なのであればそのお金を利用した細かい内訳や、何故そのお金を使わなければななかったのか、商品であれば何故その商品を買わなければいけなかったのか。。などの理由も弁護士さんにお伝えして、あくまでも「詐欺性」のない借金であった事や、返すつもりやあてもなく闇雲に商品を購入したり、借金を重ねてはいなかった、あくまでも支払う意思はあったという事を証明しなければ自己破産は成立しません。


私が行った自己破産では、地域にもよると思いますが、裁判官からの質問として「今後、このようなことの起こらないようにどのような生活の立て直しを図るおつもりですか」という質問がなされました。
この質問に関しては弁護士さんも全くの想定外の質問だったようで、弁護士さんが事前に教えてくださった質問の例としては、借金としてあげた物の内容の「なぜその時そのお金が必要だったのか」について深く掘り下げて聞かれる場合がある。
という例がどうやら一般的な裁判所では多いようです。
たまたま、私の住んでいる地域の裁判所や裁判官の方は自己破産前の事ではなく、今後同じ事を繰り返さないようにどのような心構えをしているか を確かめることによって、自己破産を申し立てている本人が自己破産をどのように捉えているのかを判断していたように思います。
東京都心部だと、自己破産者の人数が多く、ベルトコンベアーの工場のような、流れ作業的な裁判になる事が多いらしいので、お住いの地域によってスタイルは様々だと思います。


勿論、自己破産後は何かしらローンを組まなければ購入出来ないもの(スマホ・車・土地や、家)などは自分名義では一切持てなくなる事を覚悟の上で申請をする事。


お金が無くて払えないからこそ申し立てをするけれど、申し立てをするにも最低五万円は裁判所に支払わないと申し立てがそのものができない事。
そして、その申し立てをする際には弁護士さんなどのプロにお願いしなければならないので、その費用もかかる事。
など、自分では予想していなかった場所にもお金が割とかかる事をあらかじめ想定することと、その後の自分の身の振り方(引っ越す・引っ越さないや、スマホや携帯などの購入や機種変更など)も計画的に考えた上で行わないと、その後の人生が自分の予想とは大幅に変わってしまうことも多いにあり得る事柄だという事を決して忘れないように、それでもどこをどうしても今後支払っていく事が出来ないであろう負債を抱えてしまい、身動きが取れなくなってしまったり、自殺しか考えられなくなってしまったりする前には手続きをする事をお勧め致します。


誰しも、借金をして気持ちのいい人は居ません。
その借金が自分の身の丈に合っているのか、本当に返せる見込みはあるのか?
今就いている仕事は継続してしていける仕事なのか。
そういった本当に人として基本的な事がすっぽ抜けてしまうと、無謀な買い物や無謀な借金を繰り返してしまうことになります。
そもそも、借金をする時点で無謀な状況ではありますが、本人からすると「後で仕事した分のお給料から支払える」という甘い考えから、借金をしてしまうのだと思います。
確かに働いたらその分のお給料は入ってはきますが、借金を返せば終わりでは無く、支出として「日常を過ごしていくための予算」が多かれ少なかれ必ず必要になってきますし、自分の予想外の出費も意外とひと月の中にチョコチョコ発生するものです。
借りた分の金額や、ライフラインの支払いや家賃などの基本的な支出を全て支払った上で残ったものがご自身の自由に使える予算となるのです。
結局のところそこを後回しにしていると、生活していく上で相当なしっぺ返しを自分で自分に喰らう事になるわけです。
そのことによって住居を失ったり、はたまた、ガスや電気や水道が止まって、壁と屋根はあるけど、家としては機能して居ない場所で生活を送らなければならなくなるでしょう。


そのようなことの無いように、どんな事も塵も積もれば山となる山となる。
精神を忘れずに過ごしていき、自己破産という手続きに一生縁のない人生を送っていきたいものです。