あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

飴と鞭

【肯定と否定】

自己否定の強い人って結構いると思います。
多分に漏れず私もそうなんですが、自己だけならまだしも(良くはないけど)
誰かに何かを相談された時や、ご自身のお子さんにまで否定的な人も割と見受けられます。


過剰な自己否定もどちらかと言えば私には
「自己防衛」な気もしますが、周りの人の事まで余りにも否定しすぎるのも、本人の気づかないうちに周りの信頼や繋がりをなくすきっかけになりかねません。


相談を誰かにしたとして、その自分の意見を頭ごなしに否定されたらきっと相談をした人は余計に頭が固くなって頑なに自分の意見を曲げなくなってしまったり、周りが見えなくなってしまうことの方が多いように感じます。


確かに、相談の中にはどこからどう聞いてもおかしげな事もたくさんあって、もちろん私も話を全部聞いてからおかしいことに関してははっきりと「おかしい」とは伝えます。


ただ、相手が言いたいことを全て吐き出すまではなるべく遮らないようにして聞くようにはつとめています。
そして、相手が言いたい事を吐き出してから、
私は◯◯が■■に感じた、だからその意見には同意できない。
と、何がおかしく感じたのか、をはっきりと相手に伝えるようにしています。


たまに、そういう対応をして、相談してくれた人の全てを否定されたと受け取られてしまう人もいますが、なるべくそういう意見を言う前に「決して貴方を攻撃しているわけではない」
「私の意見や感想が全てではない」
という事を伝えた後に
「もし、私が貴方の相手であれば、こういう風に捉えてしまう可能性がある」
とか
「その話を聞いて私個人としてはこう感じた」
というように伝えるようにしています。


私が残念に思う、自己否定の人は
「どうせ私馬鹿だから」という人です。
私だってちっとも利口ではありませんし、
学歴も職歴もガタガタです(笑)


ただ、その「どうせ馬鹿だから」という言葉を使って、なんにも努力をする前から勝手に決め付けてしまうのは違うと私は思うのです。


馬鹿は馬鹿なりにもがいてみたら「それなり」かもしれないけれど、何かしら形になるかもしれないし、今より少し違う場所に行けるかもしれないのに、最初から何もしないで「馬鹿だから」という言葉を盾に逃げているようにあくまでも私には見えてしまうんですよね。
自分から色んな可能性を狭めてしまっているような。。。
勿体無いなぁと思うのです。


曲者な言葉は
「どうせ」
「面倒臭い」
の二つではないかと私は思うのですが、この二つの言葉を使ってしまうと大体のことは何も挑戦せずに避けて通れますものね。


別に挑戦したくなくて、現状に満足なら構わないのですが、この二つの言葉を使う人は、大体が現状に満足しておらず、何かしらに不平や不満があり、それゆえに愚痴や、相談事が発生している人に見受けられます。


それで、こちらが何かを提案すると
「どうせ」
「でも」
「だって」
「面倒臭い」
の言葉たちで一蹴してしまい、その後もずーーーーーっと不平と不満と愚痴を言い続けます。


それは、誰でも仲良くしたいと思いませんし、
一緒にいて疲れてしまうと思うのです。


ご本人そのものだけに否定的ならばまだいいですが、それがお子さんにまでその思考を植え付けてしまったら、多分お子さん達は何かを挑戦しようと思う前に
「どうせ馬鹿だし」
と色んな可能性を何もせずに諦めてしまうかもしれません。


大げさかもしれませんが、それはある意味


未来のサッカー選手や、文豪作家や、エリート商社マンや、、、、という彼らの未来の道を親御さんの「どうせ」という思考の植え付けによって、芽を出す前から枯らしているようなものではないでしょうか?


失敗は子供でも大人でも老人でも誰でも辛くて苦しいものです。


ただ、失敗をした時に受け皿になってあげられるのは子供からしてみれば最大の受け皿は親御さんです。
その親御さんが自らご自身のお子さんを冗談でも馬鹿にするような発言をしたり、「だから失敗すると思ったのよ!なんでそんなことしたの?」なんて事を言われたら、お子さん達はもう二度と何かに挑戦しようという気持ちは起きないと思います。


何かを失敗するのは人間なのだから当然です。
その時に、せめて命を投げ出したり、世界に自分は独りぼっちだと思われない程度に親が側にいてあげられたら、それだけで多分お子さん達は辛いながらも「何かしら」を掴んで成長していくんだと思うのです。


親御さんの自己否定の思考が実は色んな所に影響してしまうことを忘れずに、あまり否定しすぎず、褒められる所は褒めて生きていきたいですね。。。
(自分で自分を褒めるのは至難の技ですけどね(笑))