あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

何かを教える立場とは

【指導者として】

人に何かを教えるっていうのは、本当に難しく、教え方1つで相手がその事柄に興味をその後も持って取り組んでくれる場合もあれば、その後もうその事柄自体に苦手意識が芽生えて、避けて通ってしまう人になる事もあります。


それが、例え小学生の宿題であったり、会社の新入社員に対する仕事の指導であっても、教える側の技量によって、全く同じ事を教えたとしても、結果は天と地ほどの差が開くわけです。


勿論教わる側の人格的に何かしらの問題がある場合もありますが、私の個人的な感想としてはやっぱり教える側の興味の持たせ方次第でいくらでも変わる。
と思うのです。


私は勿論教わる側の経験もありますし、社会人として新人さんの教育担当として仕事をしていた期間もあります。


人に物事を教える作業って本当に疲れるし、骨が折れる仕事です。
ただ、その仕事を経験することによって身についたものは、仕事を教わる側よりも指導者側の方が人間として今までの何倍も成長させてもらえる機会を貰えた。
という気付きでした。


自分という人間は一人しか居ませんが、物事を教える相手は千差万別、個性も色とりどりなので、どの人に対しても全く同じ教え方では、その内通じなくなってくるわけです。
そこで、教える側が鍛えられ、与えてもらえるのが「人としての伸び代」なんだろうな、と感じました。


そうやって培った「人としての伸び代」は教えた事柄だけではなく、その後の人生において様々な場面で役に立つのです。


形式的に言えば「何かしらを教えた」だけの事であっても、教えた側にとっては本当に他には代え難い経験をさせてくれているというわけです。


勿論、世の中には色んな指導者が居ます。


「物を教える事」がルーティン化してしまって、教える側に全く興味を持たず、一方通行の指導者 も存在すれば、「指導者として扱われる事」に対して勘違いを起こし、まるで自分が自分の実力以上の権力を握ったと思い、間違った行動を起こしてしまう指導者。
「教えた事柄に対して結果の出ない事」に対し、自分の教え方に対して省みる事無く、相手側に不当な圧力をかけてしまう指導者。


など、指導者側が例え自分の子供に対する宿題を教える1人の親であっても、それこそ大企業の社員を抱える社会人であっても、若き頃に何かしらの功績をその道で残し、その道の神様と崇められるような人であったとしても「一指導者」としては、なんら変わりないわけなのです。


あらゆる場面、あらゆる立場の指導者側に立つ人々が実は教えている事によって、自分が成長させてもらえている。
この事を忘れずに、それぞれが守るべきものや、相手に対する考え方や、教え方の問題について見失う事なく、指導していける世の中になるといいな。。と感じた今日この頃です。