あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

3年目の浮気

【諦めと許し】

メンタルの治療では、度々その向き合う問題に対して「諦め」と「許し」が必要になる場面が多くみられます。


一見「諦め」は悪い事のように捉えられがちでもあり「許し」は諦めよりかはまだ良いけれどやはりあまり良いイメージは無い言葉として普段扱われているように思います。


確かに、両方共良い状態の時に使う言葉ではありませんが、メンタルの治療の際に、この二つの言葉を上手く利用して理解し、治療に取り組む事によって、本人の状態が格段に良くなる場合があります。


私の場合の例としては、病気の原因として「親との関係」が原因を占めるうちの大部分となりましたが、病気になってから、両親を責めた所で彼等が変わる事はなく、表面上なんとなく腫れ物に触るかのようになり、一見変わってくれたように感じる場合もありますが、根本的な所は変わりようがないので、フト気を許した時などに全く同じような傷つく言葉を受けたり、考え方の相違が生じて余計に落ち込んでしまう事もあります。


そういった場合に頑張って無理やり家族に自分を理解してもらおうと努力するのではなく、ある程度の「諦め」を親に対して付けることにしたのでした。
「この人達は何を言っても変わらない」決してプラスの思考ではないにしても、達成できようもない事に神経を注いで余計に病気の闇の中に沈んで行くよりかは、諦めを付けて自分自身の新しい世界を見つけに行く事の方がよっぽど疲れないという事実です。


そして「許し」の部分ですが、これに対しては私の親の場合の話になりますが、親は自身が子供時代にまた、自分の親から同じように何かしらの寂しさや苦しさを与えられ、微かに本人も周りも気づかない程度に病気の闇を抱えたまま大人になり、実際に自分が子供を持った時に、気づかず内に自分の親と同じようなことをしてしまっている。
何故なら「親」としての見本は自分の親しか見てきたことが、ないから人間としては当然の事なのです。


例えば、悲しい事に虐待を受けて育った人はやはり自身が子供を持った時に輪廻して、同じように自分では嫌だと思っていても自身のお子さんに虐待をしてしまう事があるケースが散見される事があります。
逆も然りで、「親がこうだったから、自分は絶対にそんな事はしない」と反面教師になって、逆に素晴らしい親子関係を築けるひとも、勿論いらっしゃいますし、今後もっと増えてくれたら。。と願っています。


そういった意味で最初は「諦め」というマイナスな感情から始まった親への気持ちがいつの間にか「許し」に変わっていく事柄も段々と増えていきます。
勿論、全てを許せたわけでも、ありませんし、未だに許せない部分も親に対しては多々存在しますが、毛嫌いして会話も出来ない状態だったり、年に一度も顔を合わすことすら出来ない。と言ったような、本当の意味での不仲にはならずに済んでいる。
という、状況で今現在に至ります。


誰かを恨んだり、憎んだりする事は確かにとてもエネルギーを使い、そのエネルギーを生み出す事によって、逆に糧として元気に生きていけるかもしれません。
その人から恨みや、憎しみを奪ったらもしかしたら抜け殻のようになって、元気に暮らせなくなるかもしれません。
その時期はおそらく誰にでもあって、その時期に無理矢理そのマイナスな感情を押し殺した方が良いわけではありません。


ただ、段々と自分でその憎しみの感情に対して「自分の希望はこのままでは一生通る事はない」というゴールが薄っすらとでも見えてきた時点で、そのまま、マイナスな感情を持ち続けて日々を不愉快に生きていくのか、それともその事柄に対して「諦め」を見出して別の事に視野を向けて生きていくのかは本人の自由なんだと思います。


私の場合は「憎しみ続ける、恨み続けるエネルギーが無駄だし、疲れる」と気づいてからも、暫くは相手にアピールして分かってもらおうと必死でしたが、闇は深まるばかりだったので、ある日スコーンと「あ、やめよう」と気持ちが切り替わって良い意味で「諦め」がついたように思えます。
諦めが付いた後も、勿論親は変わっていないので、フトした時に傷つけられる事も今でもしばしばありますが、それでも自分の中で「諦め」を付けた事によって、憎悪の感情は湧き上がらなくなり、悔しいけど、一瞬沈むものの、仕方のない事だも諦め、許すことで自分の通常の日常を取り戻すペースが早くなったように感じます。


諦めと許す という言葉はマイナスなようでいて、実は味方につけると、とても過ごしやすくなるプラスの言葉なのだと、病気を通じて実感している日々です。


現在、病気を抱えている方や、闘っている方が一日も早く「諦めと許し」の気持ちを受け入れて、今いる闇の中よりも少しでも明るい場所へ浮上できることを心から願っております。