あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

遠足の準備

人間も、動物も生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きているのは皆平等に与えられた物です。

勿論、誰しもが「死ぬ」為に生きているわけではなく「死ぬまで」にどう生きていかにその生きてきた終焉の時間を迎えるか。。いつかは、必ず死ぬのは確定しているのだから、それまで生きていられる時間を自分の満足のいくように、いかに生きていくのか。

が、生きていく上で大切な事柄だと現在の年齢になって感じる私です。

 

人それぞれに様々な事情を抱え、不平や不満や悩みを持ちつつも日常を過ごすのが当たり前ではありますが「人間」としての日常です。

 

自分の生きてきた最期の時間がどんな風になるのか?

なんて、誰にも分かりませんし、自分自身でも、勿論分かりません。

 

私が現時点で分かっているのは

 

生活保護制度を利用して生きている場合には行政が死後の処理を業務として行う事

 

・よって、葬式や墓などは当然あるわけもなく、友人・知人にも勿論知らせが行く事がない

 

という事は確実に分かっている事です。

 

生活保護受給者の場合には以前の投稿にも記載したと思いますが、受給者本人が死亡した際は行政により、戸籍を調べて例え結婚等で除籍された人間であっても

親兄弟に連絡が行き、その親族が死亡後の処理を拒否した場合には行政が業務として受給者の死亡後の処理を行います。

 

なので私はいつ、自分が亡くなっても良いように、2〜3年前から少しずつ準備をしています。

 

例えば、昔婦人科系で手術を伴う病気に罹ったので、半年に一度は必ず検診を受けていますが、それは「早期発見をして治療をする為」ではなく「万が一病が見つかった際に自分の余命はあとどのくらいなのか?を確認する為」に検診を欠かさず受けています。

 

生活保護受給者は保険で賄える治療は基本的には無料で受けられる様に国で働いてくださっていますが、もし自分が病に倒れた際に、例えば癌などの治療をしたとしても、支えてくれる親族や、治療後の日常的な生活をサポートしてくれる親族が私にはいません。

 

有り難い事に素晴らしい友人達には恵まれておりますが、行政や、医療の現場において「友人」は患者本人がどんなに親しくして、信頼している繋がりであったとしても、「友人」でしかないので、実際に癌告知や、余命宣告やらの深刻かつ、大きな決断などを伴う場所には介入できる権利を持ち合わせていないのです。

そういう事柄で介入できるのは唯一親族のみなのです。

 

生活保護自体を受給するに当たっても必ず一等親までの親兄弟には「この人を扶養できませんか?」という確認の電話、もしくは書面が届き、どの親族も「この人間を扶養する事は出来ない」という意思を表明しない限り生活保護を受給する事自体が出来ない仕組みになっています。

 

そもそも、扶養する事の出来ない回答をした親族が死亡後の処理を行うことなど皆無なので、生活保護受給者の半数以上が死亡後は行政に処理され、無縁仏としての葬られるのが一般的です。

 

なので、ここ最近自分の老化現象をまざまざと自分の身体のあちこちで体感し始めた私は少しずつではありますが、自分が死んだ時に後悔のないように、会いたい人に会いに行き、話したい人と話し、自分にとってストレスとなる関係を断ち、自分の持ち物の整理をし。。

と、あれこれ整理しながらも、体のメンテナンスを自分なりに行い、この先生きていくにあたって、なるべく自分が満足いく状態でその時を迎えられるように生きています。

 

それはきっと遠足の前日までに一生懸命に準備をしながらワクワクしている子供のように(笑)

 

その為には、定期的に自分の心も体もメンテナンスをし、自分の状態を把握した上でいかに時間を有効に且つ楽しみながら過ごせるのか?

を、常に意識しながらいろんな事柄を日々体験していると不思議と毎日楽しくなったりもします。

 

今後の人生の中でどんな展開があるのか?は誰にも分かりませんが、失う物が何も無い、選択出来るような状況ではないからこそ「じゃあ、その今の状況をいかに楽しみながら生きるのか?」というシンプルな答えだけしかないからこそ、自分の不快に思う事、自分のできる範囲内で楽しめる事、などをいつのまにか把握して選択して「楽しい人生」を送っていられるのかもしれません。

 

これが、どこがゴールなのか分からず、そして自分が今何を選べて何を選べないのか?

自分は今のどんな場所にいて、どんな状況なのか?

自分が出来る範囲はどこからどこまでなのか?

 

その全てが分からないままに「でも、毎日不安で、真っ暗闇の中をただもがきながら生きている」状況ならば、ご自身の生きてきた時間が虚しく感じ、なんの満足感も得られず「不平・不満」しか出てこない人生となってしまうでしょう。

 

少なくとも、昔自分が思い描いていた自分になれていなかったとしても、今、自分が何を手にして、どこまでなら動けるのか?

 

それを把握するだけでも、人生を楽しめる振り幅はだいぶ変わってくるように思います。

 

遠足のおやつの予算は幾らまで

と決まっているからこそ、その予算内でいかに自分が満足できるおやつを購入し、遠足当日に楽しめるのか?

を考えに考えてお菓子を買いに行って頭の中で色々な予定を立てるのと同じ事のように私は自分の死に対して思うのです。

 

勿論、人生は幾つになっても何が起こるのか?なんて誰にも分かりません。

 

遠足のおやつタイムだって、自分だけのおやつで終わらずにお友達と半分こしたり、思いがけない人からお裾分けしてもらえる時だってあるように、人生もいつ誰に出会って、恋に落ちるのか?愛を育むのか?友情を深めるのか?

はたまた、子供を授かるのか?結婚をするのか?

 

なんて、誰にもわからないのです。

 

誰にも分からないからこそ、現状の把握はとても大切で、把握出来ているからこそベストな選択ができたり、ハプニングが起きてもある程度の対応が出来るのではないか?

と思います。

 

その為に自分が何をするのか?

何が出来るのか?

 

遠足当日、いかに楽しめるのか?

 

そのための準備が一番大切だと思うのです。