2021年3月26日
父親が死去致しました。
前日に明け方までアルバイトをしていて、爆睡していた私は母親からの電話に気づかず、起床後慌てて留守電を聞いたら泣き喚いている母親の尋常ではない声を聞いてかけ直し、状況を、把握。
一回目の治療で、直ぐにまた口から食べ物が食べられると楽観視していたものの、勿論食道がんステージ4で、ろくに治療後の見込み等肝心な所を全く聞かずに治療に臨んだので当たり前に口から食べ物が食べられる様になるはずも無く、彼はきっと、とても落胆したんだと思う。
が、実に父親らしい最期だったとも感じた愚娘でした。
治療に臨むと昨年末に突然聞かされた時に
「正気?」と思ってその後手術云々の前に担当医から説明があると聞き、直接父親の携帯にメールするも「母に全て任せているから、母を信じたい」と、ある意味最強の夫婦の在り方や、強い絆を見せつけられ、母は母で治療についてはろくすっぽ聞く気もなく「とりあえず、お医者さんが治療するって言ってるんだから治るだろ」的な考えだったらしいけど、その母を最後迄信じ続け、例えその判断が間違っていたとしても、父親としては何の異論も異議も無かったんだろう。
そして、私は最後まで彼等夫婦の中で「家族」として扱われていなかった事も痛感したけど、それでも、きっと父は「これ以上治療しても自分の思った様な結果は得られない」と、悟ったんだろうなと、思える程に、父親が大好きだった実家の桜が満開の時期に、窓からの一望が全面満開の桜で埋め尽くされる時期に、自分の部屋からその綺麗な桜を愛でながら、亡くなって
逝ったのだと思う。
母も、甲斐甲斐しく毎日文句や愚痴を言いながらも父の世話をして、妹とはどうやらマメに連絡を取っていたようだし、きっと母はあんなに自分が父に愛されていた自覚もあまり無い様だけど彼女なりに添い遂げたという達成感は半端ないみたいで、私は何だかとても彼等を見ていて羨ましかった。
遺体引き渡しの時に痩せこけた父の体を見て
家族の中で私1人だけ泣いてしまって姪っ子に笑われたり、火葬場で父がお骨になるまで、誰一人父の話をするでもなく、全く別の話をしているのについて行けずに、1人退席して外で勝手に泣いたりしてなんとか、ちゃんと自分の中での父親への弔いは出来た。
今、思い返せば
日々楽しそうに専業主婦をしている母に憧れて昔も今も夢は「お嫁さんになる事」だった私が生まれて初めて小学5年生で作っためちゃくちゃ失敗したフレンチトーストを食べて「美味しい」と褒めてくれた父のお陰で私はお料理をする事が今も好きなのかもしれない。
自分のポリシーは絶対に曲げない。
「世界の中心は常に俺」な父親で私達姉妹には1ミリも興味を示さなかった父親だったけど、私はそんな父の事が大好きだったし、そんな父と、結婚して毎日、毎日父の為にご飯を作り、靴を磨き送り出す母の姿に憧れた。
どんなに周りから「なぜ?」と言われても
やっぱり私は亡くなった今でも父が好きだし
母の事も嫌いにはなれない。
苦しくなったり、悔しくなったり
色んな幼少期の頃の事で傷を未だに抉られたりするけれど、それでもやっぱり私は彼等両親の事が好きだ。
今でも、これからも。
両親にとって私は無意識的に家族ではないらしいけど、それでも私の礎を作ったのは彼等
両親なのは間違いない。
音楽が好きで、コーヒーが好きで
絵や映画を観るのが好きで
美味しいものを食べる事が好きで。
私が今好きな物の基盤を作ってくれたのは間違いなく両親だ。
「謎の演者気質があるね」と、大人になってから出会った人に言われた事があるけど、私にはそんな、気質は全くない。
しいて言えば多分、それは父親の気質だ。
彼は祖父の影響で能を舞う人だった(高校時代)
学校でも常に目立って、何らかを同級生の前でなんとも思わず発表するのなんてお手の物だったそうだ。
私は彼の顔面だけを生き写しに、生まれてきて
彼の自信満々な気質は1ミリも受け継がなかった笑
人見知りはせずに、幼い頃から誰にでも挨拶していた子供だったらしいのは親から聞いたけど、だからといって自分の気持ちをハッキリと周りに昔から伝えられていのか?と言われると多分そうではなかったような気がする(というか、小学校3年生位までの記憶があまり残っていない)
多分、周りから見たらまあまあな中流家庭
の、ソコソコいい暮らしを、出来ていたごく一般的な家庭に見えたと思う家庭だったけど、割と独特な家庭だったけど、そんな独特すぎる私の家族、私は好きだったよ。
きっと今頃、あっちの世界でも相変わらず「世界の中心は俺」でマイペースにやっている事だろう。
私は父と母の様に結び付きの強い絆を築ける様なパートナーに今生で出会えるのか否か?
すら危うくて、なんだか笑ってしまいそうに底抜けに悲しい時もあるけど、私らしく、楽しく
凹み過ぎずにマイペースにやっていくよ。
生きているうちに父親に一言伝えられなかったのは「俺は子供なんて欲しくなかった、お母さんがどうしても欲しいって言うから仕方なく作った、作っただけでも有難く思え」と言われてから「いや、それ思ってても言ったらダメなやつ」と感じていたけど。
それでも、私は貴方の娘に生まれて良かったと思って居るよ。と、伝えられなかった。
父よさらば。
また、いつか何処かで会おう。
その時にはその言葉を伝えるから。
またな。