あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

そこに居たから

久しぶりの更新となりました。

現在は2020年7月18日

世界中がコロナ禍で、首都圏は第2波に襲われている渦中ですが、そんな今日。

これからが楽しみだな〜と思っていた俳優の三浦春馬さんが亡くなりました。

私はSNSでこの事を知り、その後は特に報道番組等は見ておりませんが、三浦さんは自殺だったそうで、様々な報道番組や、週刊誌やらの報道合戦が週明けから始まる事でしょう。

それを見ても私個人としては余り意味がないと思っているので、見る予定はありませんし、どんなに事細かな三浦さんの情報を得ても彼が亡くなった事にかわりはありません。

 

これは、勝手な憶測ではありますが、報道のカタチとして「世の中への影響を。。。」とか「身内の方やファン方への影響」について、色々と語るコメンテーターの人が沢山出てくるんだろな。。

ってのだけは想像がついています。

 

で、ここで私が言いたいのは。

「自殺しようとしている人は、周りに与える影響なんて考えられる余裕はない」

「例え、どんなに地位や、名誉や、富を得て色んな一般常識を持つ人であっても、その時は死の事しか考えられない」って事。

 

なんだ、そんなこと?

って思うかもしれませんが。

「そんなこと」が本当に人を「死ななくては」という思考にし、本気で簡単に人は死にます。

 

私は恥ずかしながら過去に5回ほどICUに運ばれるレベルの本気の自殺行為をした事がありました。

一度、ICUの個室で目が覚めて病室の天井が見えた時は「まだ、死んでない!死ななくては!!」と、必死で体についている点滴やらなんやらの管を引っこ抜いて大暴れした後に、もの凄い鎮静剤を打たれて、気を失っている間に閉鎖病棟送りになったこともあります。

でも、そのくらい「本当に死にたい」と思う人は「自分が死んだら周りはどう思うのだろう?」なんて考える余裕すらなく。

とにかく「死ななくては」という脳味噌になってしまうということです。

 

今回亡くなられた三浦春馬さんが、どういう経緯で、自ら死を選んだのか?なんて全くわかりませんし、どんなに側に居た人であっても、彼の本当の思いは、誰にも分からないことだと思います。

 

ただ「死ななくては」という思考に至るまでは、ものすごく苦しかったり、彼なりに悩んだり色んな葛藤があったんだろうな。

と思います。

 

勿論、世の中には「誰かに気づいてほしくてそういう行為をする人」も存在します。

どっちが良いとか悪いとかではないですし、どっちの方が悩みが深いとか浅いなんて事もありません。

 

どちらにしても、苦しいのは同じです。

 

私は、ICUで大暴れした後も、その後3回程

本気のそういう行動をとってしまいましたが、現代医療のありがたさにより、特に後遺症もなく、現在も生きております。

「何で、あの時助かってしまったのだろう」と思う事も生きていれば多々ありますが笑

それでも、生きていたからこそ得られたものや、気づけた事も多々あって、ああいう事があったからこそ、感謝できる事柄もあるんだと勝手に思って生きています。

 

何故、私がその後そういう事をしなくなったのか?は、本当に身近な友人がやはり自ら死を選んで知らない間に亡くなられていたからでした。

 

「残された側」の立場になると「自分はこういう思いを周りにさせていたのか」と別の角度で「もし、自分が自殺したら」という事柄を見て、考えて、感じることが出来たのです。

私はその友人の死を受け入れるまでかなりの時間が必要でしたし、本当に悲しかったです。

但し、不謹慎かもしれませんが「友人の死は無駄ではなかった」と勝手に思っています。

 

死後の世界が云々かんぬんなんて、誰にもわかることではありませんし、亡くなられた方の周りに居た近しい方々、身内の人、友人等はまた、別の苦しみを伴うかもしれません。

 

でも、だからこそ。

亡くなられたその方の死を無駄にせず、悲しむだけ悲しんだら、残された人はその人生をその人なりに歩んでいってほしいと、願います。

 

私自身今でも「なんで生きてんのかなー?」っ感じる事もありますが笑

「生きてて良かった!」て思える事もその分沢山あるのです。

 

死を選んだ彼等は、その「感じる事」が苦しかったり、悲しかったり、耐えられなかったのでしょう。

もしくは「その後」の自分の「感じる事」を想像できないくらい、頭の中が「死」でいっぱいだったのかもしれません。

 

もし、今「死」で頭がいっぱいな人

有名な方や身近な方が亡くなってめちゃくちゃなショックを受けている人。

そのショックに耐えきれずに亡くなった方々と同じことをしたら、ご自身が今度は自分の周りにいる人達に同じくらいの悲しみと苦しみを亡くなって、ヒトとしての姿を失くしていても尚、与え続ける存在となる事を忘れないで下さい。

 

私は、めちゃくちゃ運良く死ななかったらしいから、なんでか?は分かんないけど多分「何らか」の意味があって「生きてる」のではなくて「生かされてる」のだと思って笑

基本ノーテンキなので、過去自分が経験した事、経験した上で活かせる事、伝えられる事、なんかを、その時々に必要な人に伝えられたら良いなぁ。と思いながら、今日もノホホンと生きております。

 

時は流れるのです。

今、真っ暗闇の中で前も後ろも右も左も分からない場所にいても、永遠にそのままって事は大抵の事であればありません。

 

何よりも、自ら死を選んだ三浦春馬さん、過去私の大切な友人が、最期にほんの少しでもその苦しみから解放され、絶命した事を願うばかりです。

 

 

 

 

易者身の上知らず

【一番見えないのは自分】

 

前からだいぶ期間が過ぎてしまいました。

相変わらずに生きております。

 

有難いことに今まで沢山のことを経験させてもらって、ある程度の事柄に対しては、自分なりに分析をしたり、友人などに相談事をされて、私なりの見解で、その事柄に感想を述べたりすることが過去にも増して増えてきた今日この頃。

 

しかし、他人様の事派冷静に分析することができても、自分自身の事はちっとも、冷静に分析することができず。

それよりも、自分の間抜けさに呆れて、悔し涙を流したり、急に自己破滅的な思考に至ったり。。少し時が経てば「おかしい」と理解できることでも、自分のことになるとイザという時に適切に動けなかったりして、自分の力の無さに泣く事が度々あります。

 

一昨年開いた最大にして最後のパンドラの箱も、私からすれば何故そのような事が過去にあったのに、未だに私は人間が好きなのか?

という、自分のアホさ加減に呆れる事がありすぎて、しかし、その事を誰かに話そうとすると悔しすぎて謎に泣いてしまうので、結果的に家で一人で泣くっていう訳の分からない事をしています笑

 

そんな風に馬鹿馬鹿しくて、呆れてしまう人間だからこそ、周りの人に恵まれるのかな?

とも、思える日もありますが、それでもやっぱり自分のアホさには呆れる。。

 

40代になってからも、色んなことに興味が湧いてきて、あれこれ勉強したいなと思う事もあるし、新しい人脈ができて、日々面白事柄を吸収できたり、自分なりに不要なことやぐちゃぐちゃした思考をアウトプットしたり、有難い環境と、状況に置かせてもらえている事は日々感じていて、周りへの感謝の気持ちは勿論絶え間なくあるのですが、いかんせん自分のアホさに呆れ果てて、流石に嫌気がさしてくる事も度々笑

 

人生100年時代。

そこまで生き抜けるか?は甚だ疑問ですが、どちらにせよ、40代も半ばに差し掛かってきて、人生の折り返し地点に立っているのは明らかなので、これからも、周りへの感謝の気持ちを忘れず、そして、日々人間としてのアップデートを忘れずに、生きていきたい所存です。

 

この、気まますぎるブログという文章が、今現在どう言った方々にご覧に頂いているのか?は全く持って不明ですが笑

 

様々なSNSや、発信ツールを使い分けて、色んな場所で、色んな自分をアウトプットするのは、私自身が、私自身を把握するための大切なツールとして、今後とも、活用させていただければな。。と思っております。

 

どうぞ、宜しくお願い致します。

 

 

鏡に写るは誰の顔

今年の春に、かなり仲良くしていたお友達と距離をおく事にした私です。

 

若干の共依存気味になっている感じになり、お友達の相談内容も一般的なお友達レベルを飛び越えて、彼女自身の生活の基盤がどうにかなるレベルの話になって来たので、私は「お友達」としての距離を保つ為に距離を置く事に決めたのでした。

 

その、最後の電話の時にお友達に言われた言葉がありました。

 

「貴女は、もっと賢くしたたかに生きたらいいのに、何でそれができないの?」

 

私を含め、そのお友達も余り人間関係に置いて「器用にやり過ごせる」タイプではなく、どちらかというとぶつかりあったりしつつも、深く関係を掘り下げていくか、全く興味を対象人物に持たず、挨拶だけで済ませるか。。というような、白と黒がハッキリしてしまうタイプの人間だったので「賢く、したたか」な人間は彼女自身の理想的な人間像だったのかもしれないのですが、私自身はそういうタイプが実は一番嫌いです(笑)

 

でも、現時点ではある程度「賢く、したたか」に関係を保っている人間関係も少なからず存在していて、その事実を自分で理解しておきながらも、その関係を壊すことの出来ない自分の事を私は大嫌いだったりします。

 

「賢く、したたか」な人間関係は、生活を送るという意味では必要かもしれませんが「人間の中身」を形成していく部分について「必要か?」と考えれば「私は不必要、もしくは著しく本人のメンタルに何らかの痛手を負う」と答えます。

 

多分、私が器用な人間であれば、そんな事気にも留めないで過ごせたのかもしれませんし、単に私が気にしすぎなのかもしれません。

多分に自身の性格がこの問題には関わってくるであろう事柄で、人によっては当然だと思う人もいる事でしょう。

 

しかし、私にその言葉を放ったお友達は、今の「賢く、したたか」な人間関係をある程度保っている私を見て、素敵だと思うのでしょうか?

私は、鏡に写るそんな自分の姿を見ても、全く素敵には思えません。

 

おそらく、彼女はそんな風に自分はなれないし、ならないからこそ、あの言葉を私に放ったのかもしれません。

 

彼女と私は今もお会いしていませんが、いつか、再会できた時に私が彼女に言えるのは「賢くしたたかに生きるのは辛いよ」という事だけです(笑)

我ながら纏まりのない文章で笑ってしまいますが。

いつか、彼女に再会出来た時、彼女の目に私はどんな風に写るのだろう。。

 

そんな疑問を持ちつつも。

秋の夜長を過ごす今日この頃でした。

 

宝物を手に入れた後は

 

人間は、何かしらの目標を持って生きていく事が大半ですが、その「手に入れたい物や人や状況や環境」を手に入れた後の事に関しては、あまりフォーカスされない様に感じる私です。

 

ありがちな表現は、アニメや漫画などで、物凄い権力を手にした者がその権力を永遠に自分の物にしておきたくて、不老長寿の方法を必死に探したり、悪の化身のようになって、誰彼構わず不老長寿の為に人殺しをする。。など。

あまり「良い者」の様に描かれないのが一般的な作品の一つなのかな?と言うのが私個人の感想です。

 

今、私はとてつもなく大切な宝物を手に入れることが出来ました。

本当にありがたく、なんと自分は恵まれているのだろう。。と感謝する日々です。

 

それは、掛け替えのない大切な友人達との縁でした。

そして、その友人達への双方の信頼。

 

肉親とは残念ながら信頼関係を結ぶ事の出来なかった私にとっては、友人達との繋がりや、信頼関係は何ものにも代え難く、一般的な友人の枠をはみ出てしまってはいるかもしれませんが、共依存などの病的なものでもなく、一定の距離感を保った大切な、大切な宝物の様なものです。

 

その、宝物を手に入れた私は、その後その宝物を失う事が一番怖い事となりました。

 

昔の様に「嫌われたくない願望」や、「承認欲求」から来る何でも都合よく言うことを聞く人間ではなく、時に怒ったり喧嘩したり、叱ったり窘めたり。。

ある程度、お互いの奥深くまで見せ合ってぶつかり合ったとしても、縁としての繋がりを、決して断絶させたくないのです。

 

勿論、相手をやり込めたり、頭ごなしに否定したり、自分の鬱憤を晴らす為に怒り散らしたり。。そういう行動をした場合は別だとは思いますが、何にせよ、先ず相手が私に対してそういう行動をとった場合に「相手に何らかの異常な事が起こっている、もしくは、体調が著しく悪くて見境がなくなっているのではないか?」と相手の体調面や、余裕がなくなっている原因を考え、嫌いになる云々はその後相手の状況の理由次第でゆっくり決められるくらいの、信頼関係は築けている自信があります。

 

その、自分が手に入れた二度と失いたくない宝物を、今後も断絶する事なく、縁を繋いでいく事自体はそう難しくは無いはずです。

 

私自身が人間的な成長を怠らず、そして、自分自身の出来ること、出来ないこと、相手のとの距離感を誤ることなく、その時々で調節し、節度を持った友人としてのお付き合いが出来ていれば、何も問題はないと思います。(あくまでも、現時点では)

 

が、私自身が自分の行動により、相手を著しく傷つけてしまったり、重い気持ちを押し付けてしまったりすれば、失いかねない「宝物」でもあります。

(失ってしまう事を想像しただけでどこにいても、直ぐに号泣してしまうくらいに大切です(笑))

 

失ってしまう可能性があるのは、相手を信頼していないからではなく、自分の力や行動に責任を持って、把握した上で動いているか?

が一番に大切だと私は思います。

 

自分にとっては重すぎて背負えないのに、嫌われたくがない為に安請け合いしてしまう。

とか、頼まれた事柄や、一緒に過ごす時間の為に無理をして体調を崩してしまったり、裏で辛い思いをしていたり。。という事がある場合には、それは既に快適な友人関係ではなく、若干の病的な友人関係となってしまっているからですし、先ず、今私が大切にしたい友人達は、そもそも私が無理をする事自体を望んでいません。

 

なによりも「相手の期待に応えたくて無理をしてしまいがち」な私自身の性格が一番の問題なのだと、今は思っています。

 

それは一見「相手のためを思ってしている無理」の様に見えて実は「自分の欲求を満たす為のワガママ」以外の何者でもないからです。

誰かを大切にして、その人との関係をなるべく続けていきたいのであれば、先ず自分自身を大切にして、無理をしない事。

 

その上で意見がぶつかり合えば、ちゃんと向き合って話をする事。

 

宝物を大切に、大切に、自分の手元に存在させ続けるのであれば、先ず自分自身を大切にする事。

 

宝物を手に入れた後の答えは実にシンプルでした。

 

この文章を読んでくださっている方が、どの様な宝物を手に入れていらっしゃるのか?

まだ、探している途中なのか?

それとも「何が」自分にとって宝物なのか?すらまだ分からない方もいらっしゃるかもしれませんが、どちらにしても、いつかその人なりの宝物を手に入れ、その後の人生もご自身らしい幸せな日々を送れる事を願っております。

 

 

 

遠足の準備

人間も、動物も生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きているのは皆平等に与えられた物です。

勿論、誰しもが「死ぬ」為に生きているわけではなく「死ぬまで」にどう生きていかにその生きてきた終焉の時間を迎えるか。。いつかは、必ず死ぬのは確定しているのだから、それまで生きていられる時間を自分の満足のいくように、いかに生きていくのか。

が、生きていく上で大切な事柄だと現在の年齢になって感じる私です。

 

人それぞれに様々な事情を抱え、不平や不満や悩みを持ちつつも日常を過ごすのが当たり前ではありますが「人間」としての日常です。

 

自分の生きてきた最期の時間がどんな風になるのか?

なんて、誰にも分かりませんし、自分自身でも、勿論分かりません。

 

私が現時点で分かっているのは

 

生活保護制度を利用して生きている場合には行政が死後の処理を業務として行う事

 

・よって、葬式や墓などは当然あるわけもなく、友人・知人にも勿論知らせが行く事がない

 

という事は確実に分かっている事です。

 

生活保護受給者の場合には以前の投稿にも記載したと思いますが、受給者本人が死亡した際は行政により、戸籍を調べて例え結婚等で除籍された人間であっても

親兄弟に連絡が行き、その親族が死亡後の処理を拒否した場合には行政が業務として受給者の死亡後の処理を行います。

 

なので私はいつ、自分が亡くなっても良いように、2〜3年前から少しずつ準備をしています。

 

例えば、昔婦人科系で手術を伴う病気に罹ったので、半年に一度は必ず検診を受けていますが、それは「早期発見をして治療をする為」ではなく「万が一病が見つかった際に自分の余命はあとどのくらいなのか?を確認する為」に検診を欠かさず受けています。

 

生活保護受給者は保険で賄える治療は基本的には無料で受けられる様に国で働いてくださっていますが、もし自分が病に倒れた際に、例えば癌などの治療をしたとしても、支えてくれる親族や、治療後の日常的な生活をサポートしてくれる親族が私にはいません。

 

有り難い事に素晴らしい友人達には恵まれておりますが、行政や、医療の現場において「友人」は患者本人がどんなに親しくして、信頼している繋がりであったとしても、「友人」でしかないので、実際に癌告知や、余命宣告やらの深刻かつ、大きな決断などを伴う場所には介入できる権利を持ち合わせていないのです。

そういう事柄で介入できるのは唯一親族のみなのです。

 

生活保護自体を受給するに当たっても必ず一等親までの親兄弟には「この人を扶養できませんか?」という確認の電話、もしくは書面が届き、どの親族も「この人間を扶養する事は出来ない」という意思を表明しない限り生活保護を受給する事自体が出来ない仕組みになっています。

 

そもそも、扶養する事の出来ない回答をした親族が死亡後の処理を行うことなど皆無なので、生活保護受給者の半数以上が死亡後は行政に処理され、無縁仏としての葬られるのが一般的です。

 

なので、ここ最近自分の老化現象をまざまざと自分の身体のあちこちで体感し始めた私は少しずつではありますが、自分が死んだ時に後悔のないように、会いたい人に会いに行き、話したい人と話し、自分にとってストレスとなる関係を断ち、自分の持ち物の整理をし。。

と、あれこれ整理しながらも、体のメンテナンスを自分なりに行い、この先生きていくにあたって、なるべく自分が満足いく状態でその時を迎えられるように生きています。

 

それはきっと遠足の前日までに一生懸命に準備をしながらワクワクしている子供のように(笑)

 

その為には、定期的に自分の心も体もメンテナンスをし、自分の状態を把握した上でいかに時間を有効に且つ楽しみながら過ごせるのか?

を、常に意識しながらいろんな事柄を日々体験していると不思議と毎日楽しくなったりもします。

 

今後の人生の中でどんな展開があるのか?は誰にも分かりませんが、失う物が何も無い、選択出来るような状況ではないからこそ「じゃあ、その今の状況をいかに楽しみながら生きるのか?」というシンプルな答えだけしかないからこそ、自分の不快に思う事、自分のできる範囲内で楽しめる事、などをいつのまにか把握して選択して「楽しい人生」を送っていられるのかもしれません。

 

これが、どこがゴールなのか分からず、そして自分が今何を選べて何を選べないのか?

自分は今のどんな場所にいて、どんな状況なのか?

自分が出来る範囲はどこからどこまでなのか?

 

その全てが分からないままに「でも、毎日不安で、真っ暗闇の中をただもがきながら生きている」状況ならば、ご自身の生きてきた時間が虚しく感じ、なんの満足感も得られず「不平・不満」しか出てこない人生となってしまうでしょう。

 

少なくとも、昔自分が思い描いていた自分になれていなかったとしても、今、自分が何を手にして、どこまでなら動けるのか?

 

それを把握するだけでも、人生を楽しめる振り幅はだいぶ変わってくるように思います。

 

遠足のおやつの予算は幾らまで

と決まっているからこそ、その予算内でいかに自分が満足できるおやつを購入し、遠足当日に楽しめるのか?

を考えに考えてお菓子を買いに行って頭の中で色々な予定を立てるのと同じ事のように私は自分の死に対して思うのです。

 

勿論、人生は幾つになっても何が起こるのか?なんて誰にも分かりません。

 

遠足のおやつタイムだって、自分だけのおやつで終わらずにお友達と半分こしたり、思いがけない人からお裾分けしてもらえる時だってあるように、人生もいつ誰に出会って、恋に落ちるのか?愛を育むのか?友情を深めるのか?

はたまた、子供を授かるのか?結婚をするのか?

 

なんて、誰にもわからないのです。

 

誰にも分からないからこそ、現状の把握はとても大切で、把握出来ているからこそベストな選択ができたり、ハプニングが起きてもある程度の対応が出来るのではないか?

と思います。

 

その為に自分が何をするのか?

何が出来るのか?

 

遠足当日、いかに楽しめるのか?

 

そのための準備が一番大切だと思うのです。

孤独とスポットライト

以前、どこかのSNSで「なんで、自殺する場所」として「電車に飛び込む」という選択肢を選ぶんだ!!

迷惑極まりないじゃないか!

その答えにたどり着いた人の心理が理解できない!!

と、怒り心頭していらっしゃる友人の呟きを目にした事があります。

 

お怒りはごもっともで、勿論私も会社通勤中に人身事故に合うのはしょっちゅうでした。

乗っている電車そのものに飛び込まれてしまうと、鉄道会社が警察を呼び、現場検証をし、、、とかなりの時間がかかるので、乗客はその間電車に乗りっぱなし状態か、もしくは現場検証等があまりにも長引く場合に、運良く駅構内に電車が差し掛かっている位置などであれば、徒歩で電車から降りて別のルートで目的地に向かう方法が取られる場合もあり、亡くなられた方からすれば「ぶつかった時点でお終い」ですが、電車を待っている人や、その電車に乗っている人、そして鉄道機関で働いていらっしゃる方々にとっては迷惑極まりない事柄なのは当然のことです。

 

では、何故彼等は「電車に飛び込む」という選択肢を選んだのか??

 

私は今まで計5回程自殺行為を働いたことがあります。

元々の性格上パフォーマンスとしての生半可な自殺行為は大嫌いだったので、どれも本気でしたが「痛い」のが嫌いな性格なので大量服薬という方法で5回とも100錠以上のメンタル系の処方薬を服薬するというなんとも愚かな事を行っていました。

 

私が処方されていた薬はメンタル系のお薬の中でも割合と軽めのお薬だったので、今現在幸運なことに後遺症などもなく、生かせて頂いておりますが、当時は「死ねなかった!!」と目が覚めた時にパニック状態になり病室で暴れ回ってしまうこともありました。

 

本当に「死のう」と思う時。

その時のあくまでも、私の心理としては「誰かに気づいてもらいたくて頑張ってきたけど、気づいてもらえないみたいだ、もう力も尽きてきた。。」

と「自分の中の孤独感」に負けてしまって、孤独感も虚無感も、何も感じたくない。

という一心で、大量服薬をしてしまっていたように思います。

 

そう、本当はそういう行為をする人達は誰かに気づいてもらいたいのです。

でも、そこに来るまでにかなりのエネルギーを消耗してもう誰かに気づいて貰えるようにSOSを発することも出来ず、それでも生きている自分は日々何かしらの事柄でどんどん心も身体も蝕まれていくのが分かっていて、とにかく今の状況から抜け出したいけどもう「死」以外に方法はないのでは?というくらいに脳みその思考も停止してしまっているのです。

矛盾しているけど「消えてなくなりたいけど、誰かにそんな自分に気づいてもらいたかった」そんな気持ちを抱えて、電車に飛び込んでしまう人達の1部に「誰にも自分が苦しかったことを気づいてもらえなかったし、もう自分は確実に死にたい、でも最後くらいは「そんな人いたなー」と「たとえ迷惑をかけた嫌な人」であっても、自分の知り合いや、家族や、そしてなんの関係もない出勤途中や電車を利用している人達に最後のアピールをして、そして確実に亡くなる方法。

その選択肢のひとつとして「電車に飛び込む」という方法が浮かんできてしまうのではないかと、あくまでも私の中で理由の一つとして思い浮かんだことです。

 

本当に「死」を選んだ時

人は誰にも連絡をしません。

 

なるべく、バレないように。

なるべく、気づかれないように。

なるべく、確実に死ねるように。

 

そうやって、何かしらの方法で「自殺行為」を行う人の方が多く、誰かしらに行為の前に連絡をする人は「本気で死にたいわけではなく、そのくらい追い込まれている人」だという事です。

(本人は 死にたい と本気で思っている『つもり』ですが、誰かに死ぬ前に連絡をとっている時点で本当は死にたくないのです)

 

勿論、電車に飛び込む行為自体は決して良いことではなく、そして、きっとそうやって「死」を選んだ人にも家族や友人は居て、悲しむよりもその方が亡くなったことによって発生する負債や、対応に大わらわになり、「悲しい記憶」よりも「嫌な記憶」「嫌な人」として残された人たちへ印象が残ってしまうことでしょう。

 

それは、確かに彼らが望んだ「なんかしらのカタチで記憶に残りたい」という事柄は達成したとしても、結果的には彼らが本当に手に入れたかった「孤独感の消失」は亡くなっても尚、晴れることはありません。

 

死後の世界の事は私も勿論生きているので微塵も知りませんが、「迷惑をかけて死んだ人」を懐かしく思って悼み思い出してくれる人などこの世には存在しないのです。

 

電車に飛び込んだ時点で亡くなられた方の時間は止まりますが、遺された方々の時間は常に動き流れていく中で、1番最後のその方に関する記憶が「最低」なものであれば、健康な人間であれば「思い出す度に嫌な気分になる」「思い出したくもない」そんな存在になってしまい、思い出す必要も無く、日常は流れていくのです。

 

そして、もう1つ。

その方が電車に飛び込んで亡くなられた方の事によって、その方を大切に思われていた遺された人達の誰かしらに「孤独感」が引き継がれて、亡くなった方は自分の死と引き換えにご自身が死ぬ程苦しんだ「孤独感」を自分以外の「誰か」

もしかしたら、「自分の大切な人」に「自分の死」によって、孤独感の種を無意識に植え付けて亡くなってしまっている可能性があるという事です。

 

残念ながら、今現在この文章を電車に飛び込まれて亡くなられた方々に目にして頂くことは勿論出来ませんが、今、何かしらに悩み、苦しみ、もう頭の中に「死」しか思い浮かばなくなって「死んでしまえば全部楽になる」と思われている方が、この文章に綴られている事柄を全て読めない状況であっても、その周りにいる方や、いつか「死」の近くに居たけれど、今は少し浮上してきている方や、療養中の方、、等様々な方の目に触れてくれたら幸いです。

 

孤独感に苛まれ、消えてなくなりたいけど死ぬ時くらいスポットライトを浴びて、この世界に住む人々に認識されたかった。

 

そんな、心理から電車に飛び込んでしまう人が存在しているのかもしれない。

 

いつか、「死」にとても近くにいた私が今は「死」からとても遠い場所にいるからこそなんとなく理解出来たような気がする。

そんなお話でした。

 

長文お読み頂きありがとうございました。

 

おひとりでも「電車に飛び込む」という行為を選んで亡くなられる方が減るよう切に願っております。

 

 

 

 

 

 

自分の中の亡霊と

インナーチャイルド

 

去年最後のカウンセリングでカウンセラーさんから「インナーチャイルド」という言葉を教えてもらいました。


カウンセラーさん曰く
「本来はもう精神的に成長出来ていてその状況から抜け出せているのにも関わらず、対象人物の前に出ると昔の自分が心の奥底から蘇ってしまう現象」
との事だそうで、私に当てはめると
「今現在住んでいる場所で培った人脈や、住まい、取り組んできた治療により、精神的にはキチンと成長していて、むしろ自分の親よりも精神は大人になっているのに、親と会話したり対面で会った時に、昔の『親に愛されたかった自分』が出てきてしまって、本来ならば受けなくて良い傷を負ってしまう」


「言わば、自分の中に昔の自分の亡霊が居て、親に会う時にのみ、その亡霊が出てきて自分で自分を苦しめてしまうようなもの」
らしい。


確かに、現時点では親と電話で話したり、対面で会ったりしない限りは、自分以外から深傷を負う事も割合に少なくなってきたし、傷ついても、手当の仕方を分かっていて、自分なりに手当が出来たり、そもそも傷を負うのを回避出来たりするのに、なんで親と話した時はそれが上手くコントロール出来ないんだろうなぁ。。。
と思っていたけれど、それは自分で自分の幼い気持ちが蘇ってしまって、心の何処かで親に期待してしまう「私」が出てきてしまうからなのね。
と、納得したのでした。


勿論、私自身は恋愛体質でもあるので、パートナーとの間でのやり取りで傷つく事も多々あるけれども、根本的にパートナーに対する考え方と親に対する考え方が私の中で異なっているので、どっかしらの心の分岐点でその諦めがつくのか、それとも、どうにも収拾がつかなくなって余計にこんがらがるのか。。の違いなんだろうな。
と感じました。


カウンセラーさん的にはそれ程に親(特に母親)と子供の結びつきは子供側からすると、途轍もなく強烈で、強いものなんだそうだ。


考えてみれば、それは当たり前のことで生まれ落ちてから一番最初に一番長く一緒に時間を過ごす「大人」に対して「子供」が強く結びつきを求めたり、絶対の信頼を置いたりするのはごく普通の事だ。


難しいけれども、誰しもが自分と接する人の立場によって見せる顔が変わるように、私と私の母のように上手にお互いが親離れ・子離れが出来ていない状態で、共にネグレクトとして育ってしまった場合には、どんなにお互いに歳を取って、どっちがどっちなんだかわかんないくらいになっても、やはり母親からする私は「娘」であるだろうし、私からする母親は「母」以外の何者でもないからだ。


2019年の私の個人的なテーマとしては
「自分の中のインナーチャイルドを自覚して、消滅させていくこと」
なんだろうな。。と思いつつ。
人間としていくつになっても1ミリでも良いから成長していければな。
と思っております。