あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

宝物を手に入れた後は

 

人間は、何かしらの目標を持って生きていく事が大半ですが、その「手に入れたい物や人や状況や環境」を手に入れた後の事に関しては、あまりフォーカスされない様に感じる私です。

 

ありがちな表現は、アニメや漫画などで、物凄い権力を手にした者がその権力を永遠に自分の物にしておきたくて、不老長寿の方法を必死に探したり、悪の化身のようになって、誰彼構わず不老長寿の為に人殺しをする。。など。

あまり「良い者」の様に描かれないのが一般的な作品の一つなのかな?と言うのが私個人の感想です。

 

今、私はとてつもなく大切な宝物を手に入れることが出来ました。

本当にありがたく、なんと自分は恵まれているのだろう。。と感謝する日々です。

 

それは、掛け替えのない大切な友人達との縁でした。

そして、その友人達への双方の信頼。

 

肉親とは残念ながら信頼関係を結ぶ事の出来なかった私にとっては、友人達との繋がりや、信頼関係は何ものにも代え難く、一般的な友人の枠をはみ出てしまってはいるかもしれませんが、共依存などの病的なものでもなく、一定の距離感を保った大切な、大切な宝物の様なものです。

 

その、宝物を手に入れた私は、その後その宝物を失う事が一番怖い事となりました。

 

昔の様に「嫌われたくない願望」や、「承認欲求」から来る何でも都合よく言うことを聞く人間ではなく、時に怒ったり喧嘩したり、叱ったり窘めたり。。

ある程度、お互いの奥深くまで見せ合ってぶつかり合ったとしても、縁としての繋がりを、決して断絶させたくないのです。

 

勿論、相手をやり込めたり、頭ごなしに否定したり、自分の鬱憤を晴らす為に怒り散らしたり。。そういう行動をした場合は別だとは思いますが、何にせよ、先ず相手が私に対してそういう行動をとった場合に「相手に何らかの異常な事が起こっている、もしくは、体調が著しく悪くて見境がなくなっているのではないか?」と相手の体調面や、余裕がなくなっている原因を考え、嫌いになる云々はその後相手の状況の理由次第でゆっくり決められるくらいの、信頼関係は築けている自信があります。

 

その、自分が手に入れた二度と失いたくない宝物を、今後も断絶する事なく、縁を繋いでいく事自体はそう難しくは無いはずです。

 

私自身が人間的な成長を怠らず、そして、自分自身の出来ること、出来ないこと、相手のとの距離感を誤ることなく、その時々で調節し、節度を持った友人としてのお付き合いが出来ていれば、何も問題はないと思います。(あくまでも、現時点では)

 

が、私自身が自分の行動により、相手を著しく傷つけてしまったり、重い気持ちを押し付けてしまったりすれば、失いかねない「宝物」でもあります。

(失ってしまう事を想像しただけでどこにいても、直ぐに号泣してしまうくらいに大切です(笑))

 

失ってしまう可能性があるのは、相手を信頼していないからではなく、自分の力や行動に責任を持って、把握した上で動いているか?

が一番に大切だと私は思います。

 

自分にとっては重すぎて背負えないのに、嫌われたくがない為に安請け合いしてしまう。

とか、頼まれた事柄や、一緒に過ごす時間の為に無理をして体調を崩してしまったり、裏で辛い思いをしていたり。。という事がある場合には、それは既に快適な友人関係ではなく、若干の病的な友人関係となってしまっているからですし、先ず、今私が大切にしたい友人達は、そもそも私が無理をする事自体を望んでいません。

 

なによりも「相手の期待に応えたくて無理をしてしまいがち」な私自身の性格が一番の問題なのだと、今は思っています。

 

それは一見「相手のためを思ってしている無理」の様に見えて実は「自分の欲求を満たす為のワガママ」以外の何者でもないからです。

誰かを大切にして、その人との関係をなるべく続けていきたいのであれば、先ず自分自身を大切にして、無理をしない事。

 

その上で意見がぶつかり合えば、ちゃんと向き合って話をする事。

 

宝物を大切に、大切に、自分の手元に存在させ続けるのであれば、先ず自分自身を大切にする事。

 

宝物を手に入れた後の答えは実にシンプルでした。

 

この文章を読んでくださっている方が、どの様な宝物を手に入れていらっしゃるのか?

まだ、探している途中なのか?

それとも「何が」自分にとって宝物なのか?すらまだ分からない方もいらっしゃるかもしれませんが、どちらにしても、いつかその人なりの宝物を手に入れ、その後の人生もご自身らしい幸せな日々を送れる事を願っております。

 

 

 

遠足の準備

人間も、動物も生まれ落ちた瞬間から死に向かって生きているのは皆平等に与えられた物です。

勿論、誰しもが「死ぬ」為に生きているわけではなく「死ぬまで」にどう生きていかにその生きてきた終焉の時間を迎えるか。。いつかは、必ず死ぬのは確定しているのだから、それまで生きていられる時間を自分の満足のいくように、いかに生きていくのか。

が、生きていく上で大切な事柄だと現在の年齢になって感じる私です。

 

人それぞれに様々な事情を抱え、不平や不満や悩みを持ちつつも日常を過ごすのが当たり前ではありますが「人間」としての日常です。

 

自分の生きてきた最期の時間がどんな風になるのか?

なんて、誰にも分かりませんし、自分自身でも、勿論分かりません。

 

私が現時点で分かっているのは

 

生活保護制度を利用して生きている場合には行政が死後の処理を業務として行う事

 

・よって、葬式や墓などは当然あるわけもなく、友人・知人にも勿論知らせが行く事がない

 

という事は確実に分かっている事です。

 

生活保護受給者の場合には以前の投稿にも記載したと思いますが、受給者本人が死亡した際は行政により、戸籍を調べて例え結婚等で除籍された人間であっても

親兄弟に連絡が行き、その親族が死亡後の処理を拒否した場合には行政が業務として受給者の死亡後の処理を行います。

 

なので私はいつ、自分が亡くなっても良いように、2〜3年前から少しずつ準備をしています。

 

例えば、昔婦人科系で手術を伴う病気に罹ったので、半年に一度は必ず検診を受けていますが、それは「早期発見をして治療をする為」ではなく「万が一病が見つかった際に自分の余命はあとどのくらいなのか?を確認する為」に検診を欠かさず受けています。

 

生活保護受給者は保険で賄える治療は基本的には無料で受けられる様に国で働いてくださっていますが、もし自分が病に倒れた際に、例えば癌などの治療をしたとしても、支えてくれる親族や、治療後の日常的な生活をサポートしてくれる親族が私にはいません。

 

有り難い事に素晴らしい友人達には恵まれておりますが、行政や、医療の現場において「友人」は患者本人がどんなに親しくして、信頼している繋がりであったとしても、「友人」でしかないので、実際に癌告知や、余命宣告やらの深刻かつ、大きな決断などを伴う場所には介入できる権利を持ち合わせていないのです。

そういう事柄で介入できるのは唯一親族のみなのです。

 

生活保護自体を受給するに当たっても必ず一等親までの親兄弟には「この人を扶養できませんか?」という確認の電話、もしくは書面が届き、どの親族も「この人間を扶養する事は出来ない」という意思を表明しない限り生活保護を受給する事自体が出来ない仕組みになっています。

 

そもそも、扶養する事の出来ない回答をした親族が死亡後の処理を行うことなど皆無なので、生活保護受給者の半数以上が死亡後は行政に処理され、無縁仏としての葬られるのが一般的です。

 

なので、ここ最近自分の老化現象をまざまざと自分の身体のあちこちで体感し始めた私は少しずつではありますが、自分が死んだ時に後悔のないように、会いたい人に会いに行き、話したい人と話し、自分にとってストレスとなる関係を断ち、自分の持ち物の整理をし。。

と、あれこれ整理しながらも、体のメンテナンスを自分なりに行い、この先生きていくにあたって、なるべく自分が満足いく状態でその時を迎えられるように生きています。

 

それはきっと遠足の前日までに一生懸命に準備をしながらワクワクしている子供のように(笑)

 

その為には、定期的に自分の心も体もメンテナンスをし、自分の状態を把握した上でいかに時間を有効に且つ楽しみながら過ごせるのか?

を、常に意識しながらいろんな事柄を日々体験していると不思議と毎日楽しくなったりもします。

 

今後の人生の中でどんな展開があるのか?は誰にも分かりませんが、失う物が何も無い、選択出来るような状況ではないからこそ「じゃあ、その今の状況をいかに楽しみながら生きるのか?」というシンプルな答えだけしかないからこそ、自分の不快に思う事、自分のできる範囲内で楽しめる事、などをいつのまにか把握して選択して「楽しい人生」を送っていられるのかもしれません。

 

これが、どこがゴールなのか分からず、そして自分が今何を選べて何を選べないのか?

自分は今のどんな場所にいて、どんな状況なのか?

自分が出来る範囲はどこからどこまでなのか?

 

その全てが分からないままに「でも、毎日不安で、真っ暗闇の中をただもがきながら生きている」状況ならば、ご自身の生きてきた時間が虚しく感じ、なんの満足感も得られず「不平・不満」しか出てこない人生となってしまうでしょう。

 

少なくとも、昔自分が思い描いていた自分になれていなかったとしても、今、自分が何を手にして、どこまでなら動けるのか?

 

それを把握するだけでも、人生を楽しめる振り幅はだいぶ変わってくるように思います。

 

遠足のおやつの予算は幾らまで

と決まっているからこそ、その予算内でいかに自分が満足できるおやつを購入し、遠足当日に楽しめるのか?

を考えに考えてお菓子を買いに行って頭の中で色々な予定を立てるのと同じ事のように私は自分の死に対して思うのです。

 

勿論、人生は幾つになっても何が起こるのか?なんて誰にも分かりません。

 

遠足のおやつタイムだって、自分だけのおやつで終わらずにお友達と半分こしたり、思いがけない人からお裾分けしてもらえる時だってあるように、人生もいつ誰に出会って、恋に落ちるのか?愛を育むのか?友情を深めるのか?

はたまた、子供を授かるのか?結婚をするのか?

 

なんて、誰にもわからないのです。

 

誰にも分からないからこそ、現状の把握はとても大切で、把握出来ているからこそベストな選択ができたり、ハプニングが起きてもある程度の対応が出来るのではないか?

と思います。

 

その為に自分が何をするのか?

何が出来るのか?

 

遠足当日、いかに楽しめるのか?

 

そのための準備が一番大切だと思うのです。

孤独とスポットライト

以前、どこかのSNSで「なんで、自殺する場所」として「電車に飛び込む」という選択肢を選ぶんだ!!

迷惑極まりないじゃないか!

その答えにたどり着いた人の心理が理解できない!!

と、怒り心頭していらっしゃる友人の呟きを目にした事があります。

 

お怒りはごもっともで、勿論私も会社通勤中に人身事故に合うのはしょっちゅうでした。

乗っている電車そのものに飛び込まれてしまうと、鉄道会社が警察を呼び、現場検証をし、、、とかなりの時間がかかるので、乗客はその間電車に乗りっぱなし状態か、もしくは現場検証等があまりにも長引く場合に、運良く駅構内に電車が差し掛かっている位置などであれば、徒歩で電車から降りて別のルートで目的地に向かう方法が取られる場合もあり、亡くなられた方からすれば「ぶつかった時点でお終い」ですが、電車を待っている人や、その電車に乗っている人、そして鉄道機関で働いていらっしゃる方々にとっては迷惑極まりない事柄なのは当然のことです。

 

では、何故彼等は「電車に飛び込む」という選択肢を選んだのか??

 

私は今まで計5回程自殺行為を働いたことがあります。

元々の性格上パフォーマンスとしての生半可な自殺行為は大嫌いだったので、どれも本気でしたが「痛い」のが嫌いな性格なので大量服薬という方法で5回とも100錠以上のメンタル系の処方薬を服薬するというなんとも愚かな事を行っていました。

 

私が処方されていた薬はメンタル系のお薬の中でも割合と軽めのお薬だったので、今現在幸運なことに後遺症などもなく、生かせて頂いておりますが、当時は「死ねなかった!!」と目が覚めた時にパニック状態になり病室で暴れ回ってしまうこともありました。

 

本当に「死のう」と思う時。

その時のあくまでも、私の心理としては「誰かに気づいてもらいたくて頑張ってきたけど、気づいてもらえないみたいだ、もう力も尽きてきた。。」

と「自分の中の孤独感」に負けてしまって、孤独感も虚無感も、何も感じたくない。

という一心で、大量服薬をしてしまっていたように思います。

 

そう、本当はそういう行為をする人達は誰かに気づいてもらいたいのです。

でも、そこに来るまでにかなりのエネルギーを消耗してもう誰かに気づいて貰えるようにSOSを発することも出来ず、それでも生きている自分は日々何かしらの事柄でどんどん心も身体も蝕まれていくのが分かっていて、とにかく今の状況から抜け出したいけどもう「死」以外に方法はないのでは?というくらいに脳みその思考も停止してしまっているのです。

矛盾しているけど「消えてなくなりたいけど、誰かにそんな自分に気づいてもらいたかった」そんな気持ちを抱えて、電車に飛び込んでしまう人達の1部に「誰にも自分が苦しかったことを気づいてもらえなかったし、もう自分は確実に死にたい、でも最後くらいは「そんな人いたなー」と「たとえ迷惑をかけた嫌な人」であっても、自分の知り合いや、家族や、そしてなんの関係もない出勤途中や電車を利用している人達に最後のアピールをして、そして確実に亡くなる方法。

その選択肢のひとつとして「電車に飛び込む」という方法が浮かんできてしまうのではないかと、あくまでも私の中で理由の一つとして思い浮かんだことです。

 

本当に「死」を選んだ時

人は誰にも連絡をしません。

 

なるべく、バレないように。

なるべく、気づかれないように。

なるべく、確実に死ねるように。

 

そうやって、何かしらの方法で「自殺行為」を行う人の方が多く、誰かしらに行為の前に連絡をする人は「本気で死にたいわけではなく、そのくらい追い込まれている人」だという事です。

(本人は 死にたい と本気で思っている『つもり』ですが、誰かに死ぬ前に連絡をとっている時点で本当は死にたくないのです)

 

勿論、電車に飛び込む行為自体は決して良いことではなく、そして、きっとそうやって「死」を選んだ人にも家族や友人は居て、悲しむよりもその方が亡くなったことによって発生する負債や、対応に大わらわになり、「悲しい記憶」よりも「嫌な記憶」「嫌な人」として残された人たちへ印象が残ってしまうことでしょう。

 

それは、確かに彼らが望んだ「なんかしらのカタチで記憶に残りたい」という事柄は達成したとしても、結果的には彼らが本当に手に入れたかった「孤独感の消失」は亡くなっても尚、晴れることはありません。

 

死後の世界の事は私も勿論生きているので微塵も知りませんが、「迷惑をかけて死んだ人」を懐かしく思って悼み思い出してくれる人などこの世には存在しないのです。

 

電車に飛び込んだ時点で亡くなられた方の時間は止まりますが、遺された方々の時間は常に動き流れていく中で、1番最後のその方に関する記憶が「最低」なものであれば、健康な人間であれば「思い出す度に嫌な気分になる」「思い出したくもない」そんな存在になってしまい、思い出す必要も無く、日常は流れていくのです。

 

そして、もう1つ。

その方が電車に飛び込んで亡くなられた方の事によって、その方を大切に思われていた遺された人達の誰かしらに「孤独感」が引き継がれて、亡くなった方は自分の死と引き換えにご自身が死ぬ程苦しんだ「孤独感」を自分以外の「誰か」

もしかしたら、「自分の大切な人」に「自分の死」によって、孤独感の種を無意識に植え付けて亡くなってしまっている可能性があるという事です。

 

残念ながら、今現在この文章を電車に飛び込まれて亡くなられた方々に目にして頂くことは勿論出来ませんが、今、何かしらに悩み、苦しみ、もう頭の中に「死」しか思い浮かばなくなって「死んでしまえば全部楽になる」と思われている方が、この文章に綴られている事柄を全て読めない状況であっても、その周りにいる方や、いつか「死」の近くに居たけれど、今は少し浮上してきている方や、療養中の方、、等様々な方の目に触れてくれたら幸いです。

 

孤独感に苛まれ、消えてなくなりたいけど死ぬ時くらいスポットライトを浴びて、この世界に住む人々に認識されたかった。

 

そんな、心理から電車に飛び込んでしまう人が存在しているのかもしれない。

 

いつか、「死」にとても近くにいた私が今は「死」からとても遠い場所にいるからこそなんとなく理解出来たような気がする。

そんなお話でした。

 

長文お読み頂きありがとうございました。

 

おひとりでも「電車に飛び込む」という行為を選んで亡くなられる方が減るよう切に願っております。

 

 

 

 

 

 

自分の中の亡霊と

インナーチャイルド

 

去年最後のカウンセリングでカウンセラーさんから「インナーチャイルド」という言葉を教えてもらいました。


カウンセラーさん曰く
「本来はもう精神的に成長出来ていてその状況から抜け出せているのにも関わらず、対象人物の前に出ると昔の自分が心の奥底から蘇ってしまう現象」
との事だそうで、私に当てはめると
「今現在住んでいる場所で培った人脈や、住まい、取り組んできた治療により、精神的にはキチンと成長していて、むしろ自分の親よりも精神は大人になっているのに、親と会話したり対面で会った時に、昔の『親に愛されたかった自分』が出てきてしまって、本来ならば受けなくて良い傷を負ってしまう」


「言わば、自分の中に昔の自分の亡霊が居て、親に会う時にのみ、その亡霊が出てきて自分で自分を苦しめてしまうようなもの」
らしい。


確かに、現時点では親と電話で話したり、対面で会ったりしない限りは、自分以外から深傷を負う事も割合に少なくなってきたし、傷ついても、手当の仕方を分かっていて、自分なりに手当が出来たり、そもそも傷を負うのを回避出来たりするのに、なんで親と話した時はそれが上手くコントロール出来ないんだろうなぁ。。。
と思っていたけれど、それは自分で自分の幼い気持ちが蘇ってしまって、心の何処かで親に期待してしまう「私」が出てきてしまうからなのね。
と、納得したのでした。


勿論、私自身は恋愛体質でもあるので、パートナーとの間でのやり取りで傷つく事も多々あるけれども、根本的にパートナーに対する考え方と親に対する考え方が私の中で異なっているので、どっかしらの心の分岐点でその諦めがつくのか、それとも、どうにも収拾がつかなくなって余計にこんがらがるのか。。の違いなんだろうな。
と感じました。


カウンセラーさん的にはそれ程に親(特に母親)と子供の結びつきは子供側からすると、途轍もなく強烈で、強いものなんだそうだ。


考えてみれば、それは当たり前のことで生まれ落ちてから一番最初に一番長く一緒に時間を過ごす「大人」に対して「子供」が強く結びつきを求めたり、絶対の信頼を置いたりするのはごく普通の事だ。


難しいけれども、誰しもが自分と接する人の立場によって見せる顔が変わるように、私と私の母のように上手にお互いが親離れ・子離れが出来ていない状態で、共にネグレクトとして育ってしまった場合には、どんなにお互いに歳を取って、どっちがどっちなんだかわかんないくらいになっても、やはり母親からする私は「娘」であるだろうし、私からする母親は「母」以外の何者でもないからだ。


2019年の私の個人的なテーマとしては
「自分の中のインナーチャイルドを自覚して、消滅させていくこと」
なんだろうな。。と思いつつ。
人間としていくつになっても1ミリでも良いから成長していければな。
と思っております。

才能の塊

 

すっかり、更新を怠っておりましたが、2019年明けましておめでとうございます。
こちらの、ブログは本当に気まぐれ更新で、読んでくださっている方がいらっしゃるのかは謎ですが(笑)
今年もどうぞよろしくお願い致します。


以前、YouTubeに関する記事をあげたことがありましたが、今年は日本のYouTuberさんが旅先での事故によって死去なさり、それによる視聴者の方達の反応や、亡くなられたYouTuberさんと直接親交のあった他のクリエイターさん達の反応など、様々な人達の思いや、普段全くYouTubeを見ない人達の反応なども見ることが出来ました。


先ずは、亡くなられたYouTuberさんのご冥福をお祈り致します。


普段からYouTubeを沢山視聴させて頂いている側としては、何よりも驚きと悲しみと、哀しさがこみ上げてくるものがありました。(勿論、亡くなられたYouTuberグループさんのchも拝見しておりました)


そして、YouTubeを普段全く見ない人達の感想を聞いてもっとびっくりしたのを覚えています。


私の年齢は40代なので、YouTubeを沢山視聴する人から、全く興味がなく見たことも利用したこともなく、名前だけは知っているという疎らな人間が多い世代というビミョーな年齢のせいかもしれませんが「YouTuberとは、なんとなくワイワイ騒いで楽しく動画を撮って楽して稼いでいる人」という思考が人によっては未だ浸透している事を自分の友人によって体感してしまうとは驚きでした。


私からすると「YouTuber」という道を選んで生きている人達(勿論私なんかより全然歳下だ)は全世界に幾多もあるchからいかに「自分のchを見てもらえるか?」を常に考え、そして彼等が生きていくための「YouTube」という産業を廃れさせないように常に「旬」を保ち、いかに「継続的」に視聴者に見続けてもらえるか?を考えながら、企画を考え、演者として動画に登場し、撮影をし、編集もする。


それは、言わば「テレビ局」や「映像の仕事」に携わる「プロの人達」がそれぞれの「プロ」が分割して作り上げていく「映像という名の作品」をグループだったり、個人だったり、とにかく一個人の事業主として、今までの大人達が分けていた仕事を一手に自分達で行なって、観る人達を惹きつけつつ、セルフプロデュースも行うという、多分とてつもなく大変な仕事だ。


今、トップYouTuberとして活躍している人達は始まりはただの思い出作りだった人も居れば、なんとなく有名になりたいから。。という理由で始めたり、アルバム代わりに始めた人もいるかもしれない。


そして、幾多のchから自分を見てもらうために奇抜過ぎることや、劇的すぎる事をするYouTuberの人はそのひと時だけ人気者にはなるものの、結局のところ一過性で終わってしまい、継続してみてもらえる事はほぼなく、それではとてもじゃ無いけど、一生生きていけるだけの資金をその一瞬で稼げるのか?というとそれは多分全く無理な事だと思うし、そういう人達はやはり一瞬で消え去ってしまう。


なので、今現在トップを走り続けているトップYouTuberの人達は何よりも「才能の塊」な人達で、そして、その自分の才能を如何に輝かせて、活かしていくのか?
に対して努力を怠らない、とてつもなく努力家で、且つ天才肌の人達なのだろうな。
と、私はただのイチ視聴者として感じている。


そういう才能の塊の人達が国内外構わず世界中に発信してくれているという事は、それはこの国にとってとても大切な「宝」みたいなものではないのか?
と勝手に思っているのだけど、やはり普段からYouTubeを目にしない人からすると「ただの若者がふざけているだけ」に見えてしまうのだろうか?


なんだか、そんな友人の感想を聞いて私は悲しくなってしまった。
彼等よりも歳を取っている私達が、自分よりも若い才能の塊を持っている人達の事を軽視し、亡くなられていると言うのに、その事柄を軽くみてしまう。


人間であっても、どんな生命体であっても、命の重さや大切さにはなんの違いも無いのに。


「職業」という枠で考えたら友人でいる私の命の方が余程軽く、世の中の人からなんとも思われもしない、そもそも、存在していることすら認識されない人間だというのに。
「才能の塊」と「努力家」で沢山の人達に認識されている。
という意味であれば、芸能人やスポーツ選手の人達となんら代わりない人達なのに、「YouTuber」という括りだけでそんなにも「軽視」されてしまうのか。。と


若い・年寄り関係なく、そういう風潮はあるのかもしれないし、個人の考え方ひとつでいくらでも変わる価値観だけど、出来れば、自分の周りの人達がそんな風な考え方をしないでほしいと、切に感じた年明けでした。


YouTuberさんというのは、才能の塊であり、今の子供達にとっては、芸能人のように憧れの存在でもあり、でも画面越しに毎日会えるお友達のようでもあり、、、
多分、少し距離が近い芸能人的な大切な友達の役割も兼ねている存在なんじゃ無いかと私は勝手に思っているのだけど、その子供達にとって「憧れで、友達で、特別な存在」の人が亡くなってしまった事によるショックはきっと大きいし「どんなに、成功している人であっても、生と死は皆平等に訪れる」という事も「取り残される側の哀しさ」も今回のYouTuberさんの死で学び、そして自分達のもっと近くに居る友達や家族や知り合いを大切に思って、くだらない「悪口」や「なんとなく」の遊び感覚で「誰かしらを虐めたり、陥れる」ような事が無くなってくれればいいな。。と思いました。
「虐められた側」や「陥れられた側」の子達が万が一自ら命を絶ってしまった時「虐めた本人達」の心に響かなくても、そのご家族や、そのお友達など「取り残された側」がどんな気持ちになるのか。


を、上の人からも、下の人からも、そして勿論、視聴者の人達にも愛されて、その天才の才能を見せてくれたYouTuberさんの「死」という事で、命の儚さも、脆さも、そして何よりも大切さと重さを、学んでくれたら、きっと彼の死は無駄ではないのでしょう。


人間誰しもが、何事も経験してみないとわからないものです。
私自身も親しくしていた友人が亡くなって「取り残された側」に初めてなった時に「私は自分の家族に、仲良くしてくれている友達に、こんな思いをさせていたのか」と自覚し、その後は病気が酷くてどんなに辛くとも、そのような事を頭で思いついても、実際に行動に移すことはしなくなりました。


何よりも、亡くなられたYouTuberさんご本人が一番悔しく、そして哀しい事でしょう。


残されたクリエイターさん達が、また心から楽しんで今後もYouTubeで、世界中の人々を楽しませてくれる事を願いつつ。
それを視聴できる幸運に、日々感謝して生きていきたいと思います。


年明けから重たい内容で、長文及び乱文を最後までお読み頂きありがとうございました。

NO MUSIC NO LIFE

【米津玄師さんと宇多田ヒカルさん】【私個人の思想と感想】

私は昔から音楽が好きです。
幼い頃から色んなジャンルを聴いていたものの、そのアーティストさんは「凄い人が出てきたな」という感想のお二人について書きたいと思います。


宇多田ヒカルさんは、言わずもがな時代を彩っていた小室哲哉氏が彼女が出てきた当時に引退を考えた程の人物で、声も、歌唱力もそして僅か10代の彼女が全て考えたとは思えない程に達観した歌詞と楽曲。
ビジュアルもとてもお綺麗で私は一瞬にして虜になりました。


そして、数年前から耳にするようになったと思ったら今や神と崇められる程にまでになった米津玄師さん。
彼の歌を始めて拝聴した時に「こんなにも、自分が思っていた事を具現化できてしかも、作詞も作曲も出来るのかー!!」と衝撃を受けた事を覚えています。


宇多田ヒカルさんは、私が20歳なりたてくらいにデビューなさって、米津玄師さんは私が発病してある程度落ち着いてからデビューなさってました。


お二人の作品には独特の世界があります。
お二人共に(ここからは、私の勝手な感想が多分に含まれる)とても辛い思いや、苦しい思いをしたり、もしくは本人がそうだと感じてなくても、心の何処かで感じようとせずにでも静かに傷つきながら育ち、その闇を抱えながら生きている。という事。


お二人の違いは多分音楽を作る年齢に達した時のその苦しみの位置が彼らの中で何処にあったのか??
そこに違いが出て来るんだろうなぁ。
と、今現在メンタルのメンテナンスがある程度落ち着き、今は共存して生きていけるレベルになった私だから見える世界がありました。


宇多田ヒカルさんはいわば「哲学」の域にご自身の苦しさや悲しみを持っていき、音楽を作る際にその部分を開いて作っているんだろうなぁ。
そこに、彼女の楽曲としての才能が加わってJ-POPと呼ばれるジャンルよりかはソウル&ブルースのジャンルにカテゴリー分けされているのかもしれない。。(音楽のサイトやアプリだと、たまにその様なジャンルに入れられている事を度々目にする)


米津玄師さんの場合は、ある程度の彼の中での悲しみや苦しみの昇華の上で音楽を作る過程に辿り着いてはいるものの、まだまだ、生々しい傷跡なので、歌詞がとてつもなくリアルで、人によっては「脳みそ揺すぶられた」感覚になったり、その楽曲をなんの気なしに聴いて自分の感情とは関係なしに涙が出てきてしまう人もいるのかもしれないなぁ。。


という、感想でした。


で、何が言いたいのかというと、今現在、米津玄師さんが中高生に大人気なんだとか。
勿論それはいい事だと思うし、別に何ら変な事でもない。


ただ、なんていうか、私の主治医もよく口にするけれども「現代の若い人達は昔に比べて病みやすい環境が整い過ぎている」という懸念。
誰だって、大なり小なり悩みや苦しみや闇は勿論人間として抱えていて、それが当たり前なのだけど、多分、米津玄師さんに共感する中高生が山のようにいるということは、メンタルを病んだ人達に近い心の闇を抱えながら生きてる中高生がめちゃくちゃ多いということなんだと思う。


別に、昔からメンタルの病を抱えていた人は山程いるわけでおかしい事ではないのかもしれない。
ただ、これだけ「生まれてきちゃってごめんなさい」的なメッセージ性の強い歌が好まれるっていうのは、今の中高生が多分、相当生き辛い日常環境なんだろうなぁ。。と思うのです。


別に昔が良かったとか、そういうわけではなくて、スマホだって、ネットだって十分に役立っているし、今や必需品って人も多いと思う。
多分、中高生が至りやすいのは「スマホを活用しているつもりで、それらに操られてしまいがち」な所が年齢的な事や、本人の性格や、成長度合いで強まるんだろうな。。
という事。
楽しんでいるつもりで使っているSNSが実はストレス源になってたり。。
「だったら使わなきゃいーじゃん」なんだけど、それが中々生活の場面で出来なくなってたり、使わなければ人の輪に入れなかったり、勿論、別に1人が好きって人ならいいと思うし、気にしなければ良いのだろうけど、多分苦しんでいるのは、中間層の誰にでも人当たりよくて一見なんの問題も無さそうな子。
が、親にも誰にも言えないで苦しんでるのかもなー。
という、私一個人の勝手な考えですけど、だからこそ、今のこのタイミングで米津玄師さんがデビューなさって、沢山の人に支持されるんではなかろうか?
と勝手に思ってしまうのです。
米津さんの音楽は曲もとても素晴らしくて、独特のリズム感とか、音楽的世界のセンスも今までにない感じの音を創り出す方なので、ただ、単に音楽として好きって人も沢山いると思うし、流行ってるから好きって、中高生も沢山存在すると思う。
何より、彼の曲を聴いて自分の感情を具現化してくれてそれでストレスが軽減されている人も沢山いるだろうし。。


どちらにしても、私が一個人としてこの2人のアーティストは多分生涯忘れることのない、大きな存在を示すアーティストな事に変わりはない。
お二人がそれぞれの位置でそれぞれの思想や、溢れ出した想いを色んなメロディーに乗せて綺麗な音楽を奏でるのをまだまだ、楽しんでいきたいと思う、今日この頃です。

 

 

生きてる?

ヴィーガンブームについて】

先日、久し振りにTVのニュース番組を見ていてビックリした事があった。

海外でヴィーガンブームに拍車がかかって、ヴィーガンの人々が精肉店などを目の敵にし、暴徒化して精肉店を襲ったという。。。

 

私は無添加主義でもないし、オーガニック信者でもないし、野菜もお肉もお魚も乳製品も卵も海藻類も食べ物は何でも好きな方だ。

別にベジタリアンの人が悪いとか、ヴィーガンの人々の事を異常だとも特には思わない。

「好きにすれば良い」

ただ、それだけだ。

私一個人の感想というか、疑問として幼い頃からあるのはベジタリアンヴィーガンの人々の中で盲信的な人の中には「肉や魚は命を奪っている行為で、残酷だから、私はベジタリアン(もしくはヴィーガン)になったんだ」という意見を持っている人達の思想だ。

「命を奪って生きていくのなんて、自分勝手で、傲慢で、残酷だ」というのも、そう言う思想の人達に多く「それは地球を傷つけている」という思想の持ち主の人々が割と多く存在している。。

という、あくまでも私の感想なんだけど、では、彼等にとって「植物」は「命」ではないのだろうか??

という疑問。

確かに動物のように血も出ないし、種類によっては収穫しても根っこさえ抜かなければまた、葉をつけ茎を伸ばし、再度収穫させてくれる有難い作物もあるし、作物によっては根っこそのものを食して楽しむものもあるので、再生する。。というのとはまた違う植物も存在する。

 

もし「動物を食べることは地球にとって悪い事だ!」と言うなれば、おそらく「人間」の存在そのものが、地球にとってはとんでもなく悪い事であり、はっきり言ってしまえば地球主体で見たらば人間なんて消滅してくれた方がよっぽど「地球」という惑星からしてみれば、星として永らく存在し続けることも出来て、環境破壊もなく、清々すると思う。。

 

彼らの言う「命を奪って食べる事は残酷だ!」が言葉通りなのであれば、彼らは集団自殺する以外に彼らの指す「残酷さ」から逃れられる事は皆無ではないのか?とも思うし「命を奪って生きていくなんて、傲慢だ!」と言いながらも平気で植物の命は奪って生きているのだから、彼らの言う「傲慢さ」は存分に発揮されて生きているようにも、私一個人としては感じるのだ。

 

例えば、元から「食肉用」としてのこの世に生まれ育ってきた牛や豚や鶏を「残酷だから」という理由で山や野に放して「自然に戻すんだ!」なーんて思想を割と本気で持っている方もチラホラ見かけるけれども、完全にペットとしての育てられてきた猫や犬をイキナリ野や山に放して生きていかれるのか?と言えば勿論生きていけないのと同じで「食肉用」に育てられた動物達だって同じ事だ。

人間で例えれば、彼らの言う「人間本来の形で生活しなければ」と言う主張。

彼らの指す「本来の姿」が一体どの時代の「人間」を指しているのかは疑問だけど、おそらく電気もガスも水道もなく、家も勿論自分たちの手で建てるところから始め、日が昇ったら目覚め、日が落ちたら眠る。

多分そんな時代の事を指しているように思うけれど、果たして彼らにその生活が本当に出来るのか?

と言えば多分、できないと思う。

もし、本気でやりたいなら、やりたい人達だけで集まってやれば良いと思うし、その思想が必ずしもいけない事だとも思わない。

どっちが良い、悪いではなくて、人間にも動物にも、植物にも様々な種類や個性があるように、思想はそれぞれ個々に存在するのに、その人達が信じているものが絶対になると「それ以外の思想」や「その思想を否定するもの」を「絶対的な悪」と決めつけて、自分達の思想を押し付けるのが問題だと私は思う。

 

胃腸が弱くて動物性のものを口にすると胸焼けして吐いてしまう体質の人もいれば、何かしらのアレルギーを持った人が動物性のものを口にする事が出来ないって人も居ると思う。

その人達に対して「なんで動物性の物を食べないんだ!不自然だ!!」と叫んでも意味は無いし、無理やり食べさせても良い事は何もない。

ただ、ごくごく一般的に植物性の物も動物性の物も口にできる体質の人で、少しでもその「食材」となってくれた多くの命に敬意を表するのであれば、その食べ物を口に出来たことを命に感謝しながら美味しく頂けば良いと私は思う。

 

作ってくれた人にも、そして、食材にも、自分が口にするすべて物に関わった命や人間に感謝して、美味しく頂く。

これは、きっと「提供」した側からすれば一番の喜びではないだろうか?

 

様々な食べ物を口にする事ができる幸運に対して様々な命や人の手が関わっている事、その事自体に感謝して頂く。

 

そんな、シンプルな事なのに。

何故か皆んなできなくなってしまっているようになっている。

そんな気がしてならない。

 

何をもって「命」と判断して「残酷」とするのかは、人それぞれだ。

 

動物達は生きていて、植物達は死んでいるのだろうか?

 

それも、また人それぞれの判断基準があるとは思うけど、脈々と受け継がれる命があるからこそ、木々は毎年花を咲かせ、実を実らせて、また、種となり芽を出して、大木となっていく。

それは、ベジタリアンヴィーガンの人々にとっては「生きていない」「命」ではないのだろうか?