あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

初めて覚えた漢字

今年の春に父親が亡くなってから今年のお盆は世間的には「新盆」というどうやら特別な物のはずでしたが、お墓も、お葬式もバカバカしいと考えていた両親が「お盆」など気にするはずもなく。。多分父親の遺影を飾っているのは私だけなのだと思うのだが。。といった状態だったので「そもそもお盆とはどうしたら。。」と思っていてTwitterで呟いたら「好物とかを遺影の前にお供えしてはどうでしょう?」というアドバイスを頂き「そうか!!」と、一番最初に父親の好物として頭に真っ先に浮かんだのが父親が大阪に住んでいた頃にどハマりしでその後別の地域に転勤してもずっと取り寄せていた珈琲屋さんのコーヒーでした。

よーくよく思い出したら私が5歳の頃から転勤先に取り寄せていたので、その頃に「通販」と言うものが存在していたか否か?は不明ですが、中々に父親の我儘に長い事付き合ってくださった珈琲屋さんだなぁ。。としみじみ。

何せ、私が5歳の頃という事はほぼ40年前からその珈琲屋さんは父の頼みを聞き入れて、日本全国、父が引っ越した先にコーヒー豆を毎月定期的に送ってくれていたのです。。長い、実に長すぎる程に長い。

 

珈琲屋さんの名前で検索したら、今は当たり前ですが、通販も展開されていたので、私が飲めそうな苦味の強いコーヒー粉を注文。

思いついたのがお盆始まった初日だったので、新盆終了日後に到着しましたが、備考欄に父がお世話になった事や、春に亡くなった事などと、長い事父の我儘にお付き合い頂いた感謝の言葉を綴ってオーダーしたら、お盆明けにご担当者様から丁寧なお返事を頂き、オマケに父が愛飲していたコーヒー粉までつけてくださいました。商品が手元に到着したらわざわざ手書きの一筆箋まで入っていて、びっくりしたのと「まさか、お嬢さんにまで弊社の名前を覚えて頂けるとは」と記してあって、これまたびっくり!

でしたが、その珈琲屋さんはとても渋い漢字のお名前の珈琲屋さんだったので、恐らく私が自分の氏名よりも一番目にしてた漢字だった様に思いました。

5歳の頃から毎月毎月、家に届く珈琲屋さんの箱に大きく表示されていた、珈琲屋さんのお名前の漢字を私は本当にずっと、ずっと見続け、家を出るまではずっとその珈琲屋さんのコーヒーの香りが漂う家に住んでいたのだから忘れるわけがありません。

が、よくよく考えれば多分40年間日本全国あちこち引っ越しつつも絶対に毎月コーヒ豆を注文し続ける人が突然亡くなった時に、一般的な家庭ならば多分、その通販先にご挨拶的な、何かのお知らせをするかも?だけど、めちゃくちゃ大きな通販サイトとかだとしたらまあ、まず連絡しないだろうしなぁ。。と考えると中々に感慨深い父の新盆となりました。

私が自分の好みで頼んだコーヒー粉はとっても美味しくて、1日一杯美味しく頂いております。

我が家の新盆は、少し遅れましたが父親の大好きだったドリップコーヒーと、紙タバコをお供えして、BGMに父の好きだったジャズを流した

いかにも我が家らしいお盆で終わりました。

 

 

私のお家

メンタルがホルモン周期的に凹む時期に入ると私は自分が何で生きているのか?が分からなくなる事が多い。

友達や、他の人から言わせれば「先ず、何で生きてるのか?を考える思考が分からない」と言ってくれる人も居れば「存在しているだけで偉い」と言ってくれる人も居る。

どちらもとてもありがたい言葉だ。

 

なんで、私が「存在している意味とは?」とグルグル考えてしまう原因も、だいぶ前から分かっていて、私が完全なるネグレクトだからだ。

但し、物理的に暴力などの虐待を親から受けたのか?と言えばそれは違う。

我が家はおそらくごく一般的な中流家庭で、両親共に育ちも良く、親の仲も良好で、経済的にも全く困窮していない、寧ろ親はバブル景気の恩恵を受けまくって仕事をしていた世代だ。

なのに何故私がネグレクトなのか?は

「親が私に一切興味を持たなかったから」

なのと、4つ下の妹は母の好みの子供だったらしく、私には注がれなかった母の愛を妹が目の前で湯水の様に浴びているのをまざまざと目にして育ってきたからだ。

妹が生まれる前から多分私は寂しかったらしく

3歳の頃からずっと自分の中にある気持ちが未だに消えない。

それは「お家に帰りたい」だ。

3歳で、実の両親と共に何不自由なく育っている子供がなんで「お家に帰りたい」なんて気持ちを抱くのか?

私は親と一緒に住んで、ごく普通の家庭で育っているはずなのに。。だ。

私は幼い頃の記憶が小学校一年生位まで殆どないのだけれど覚えているのは「母親の笑顔が自分に向けられた事がない事」と「お家に帰りたい」とずっと思っていた事。

だけなのだ。

親の話によれば、私は生まれて一度も人見知りする事がなく、道行く人全てにニコニコしながら「こんにちは」と挨拶していた子供らしく、親の仕事の都合で日本全国を転々と引越しを繰り返していたけれど、そのいく先々で色んな人に可愛がってもらっていたらしく、全く血縁関係のない商店街の八百屋さんやお肉屋さんや、魚屋さんにまでお年玉をもらったり、大富豪らしき高齢のご夫婦のお屋敷にお呼ばれしていたらしいが、そこいらへんの記憶はほとんどない。。

 

残っている記憶は「お母さんが私に対して笑わない事」と「お家に帰りたい」と自分の家にいるのに、存在しない何処かの「お家」に「帰りたい」という寂しい気持ちだけ。

 

今、分かるのは。

多分子供ながらに一切自分に興味を示さない親に対して元々寂しん坊で甘えん坊の性格の私は物凄く心の中で孤独を感じていたのだろう。

という事と、その寂しさを埋める為に「人見知りしてる暇はなく、それよりも自分を必要としてくれる人を必死に子供ながらに探していたのだろう」という事。

だから、人見知りを赤ちゃんから一度もせず、誰にでもニコニコと挨拶をして、自分に興味を持ってくれる人を探し求めて、ただそこに「存在しているだけで良いんだよ」と、言ってくれる人を探していたんだと思う。

だメンズ好きなのも、長年付き合いのカウンセラーさんとの分析で、原因も判明している。

父親が子供に一切興味を持たない人間だったので、自分にとって初めて意識する異性は「自分に興味を持たない人」とインプットされて育つ→そのまま大きくなった時に自分に興味を持ってくれる人=いい人

というアホみたいな図式が頭の中に出来上がってしまったのだ。

そして、だメンズの人達の好意はとてもわかりやすいんだそうだ。

「俺はお前を必要としている!」と表面にわかりやすく出すので「必要とされている→嬉しい」となってしまって、勝手に恋に落ちてあれやこれやと相手の世話を焼く。

なんとも、だメンズを更にだメンズに育ててしまうダメ人間製造機の一丁あがりである。

 

その時々に付き合っただメンズ君達はその時々の私に確実に必要であった人達なのは間違いなくて、彼等から貰った歪だったり、方向性がちょっと間違っちゃった愛で、たくさんの事を学び、本当に亀ペースでやっと自分の性格やら、根底にある原因故の孤独感やら、だからこそ安心感を求めてよりダメな人、ダメな人を掴んでしまう事もやっと理解できた。

少し、遅すぎんか?とも自分で思うけど、こればっかりは仕方ない、きっと私には亀ペースであちこちぶつかってぶつかりまくって、全部体験して痛い目を見ないと理解できなかった事なんだと今は思うし、全ての時間は無駄ではなかったと今は思えるし、だメンズ君達とだって楽しかったり、幸せだった記憶も沢山ある。

 

で、どフリーになって2年経って初老を迎えつつある今は、寂しいんだろな自分が。。ってのをヒシヒシと感じる。

ただ、安心したいんだろなってのと、愛されたいし、愛したいんだろなってのがあって、でもどっちも現時点での「私」には恋愛をする権利すらない事も分かっていて、だから余計に焦るし、早く今の現状を、打破したいのに身体が脳味噌についていけなかったりしてて、悔しくて悔しくて、唇を噛む事もしばしば。。

 

本気の虐待を受けてきた人達からすれば

「何甘ったれた事言ってんの?」ってなるだろうし、馬鹿にされても仕方ないと思う。

 

そう、私はずっと甘えん坊と寂しん坊がきっと3歳の頃から進化出来てない、欠陥品な大人。

そして、何一つ成し遂げる事もなく、全てが中途半端でしかない大人で、そんな人間が愛される事なんてないのだよ。

しかも、若くもなく初老だし。

愛してくれる人が出現したとして、私はその人の事を骨の髄まで愛することはできても、子供を産むとか、そういう一般的な女性が相手にしてあげられる事が何一つできない。

ご飯作る事くらいしかできないのだよ。

 

だから、ホルモン周期的にダメダメ時期は凹むし、亡くなってしまったメンタル的な病で知り合った私より若くて可愛らしくて、本当にまだまだ、未来も沢山選択肢があったであろう彼女達が、何故死んでしまって私が生きてるのか?が未だに理解できない。

多分、何らかの理由で生かされているのだと思うけど、じゃあ、その何らかの理由は一体何なの?ってその理由のお陰で私は生きていても良いとされているの?って思いたいから、その理由を誰かに教えてもらいたいと思う。

 

まあ、ホルモン周期的にダメダメ時期を抜けたらまた大元の性格のあれこれ途中はグダグダ言ってても、最終的には「楽観主義」な性格で「ま、いっか、それも私の一部だし〜」って思えるんですけどね。

 

でもね、幾つになっても、いつかは「安心感」をそして「愛し愛されるパートナー」を得たいと思うのはダメな事なのだろうか?

いつか、私は安心して、愛してる人の腕の中で眠る事が出来るのだろうか。

そんな、頭の中高校生のお花畑かよ!と自分でツッコミたくなる夢を初老になっても持ってる自分に反吐が出そうになるけど、実際そうなんだよね。

信頼しあって、一緒に安心して睡眠が、取れるパートナーと共に残りの人生の時間を過ごしたい。

それだけなんだけどね、難しいね。

とりあえず、死なない様に頑張るよ。

 

 

まんじゅう怖い

【私が思う人見知りとは】

最近、質問箱という匿名で質問できるツールを使い始めた私です。

そこによく投稿される質問の中に

「人見知り」についてが数多く見られて

私は生まれてこの方一度も、本当に子供時代に必ずあるはずの人見知り期間ですら無かった位に人見知りをしないまま育った人間だ。

だが、妹と母は、どちらかと言うと激しい人見知りの人間で、良く言う完全なる「内弁慶」タイプで、内々の間柄にはひょうきんだし、強気な時も全然あるし、楽しい性格だけど、知らない人と会うと全く話さなくなったり、完全に「借りてきた猫」みたいになるタイプの2人が家族に居たので、人見知りの人の苦悩だったり、誤解されてしまったり等の人見知りならではの人間関係での苦労は隣で見ていた私です。

 

で、思ったのは誰しも「恥をかく」のが好きな人間なんて居ないのですが、人見知りの人はそれを極端に怖がるのと、多分相手から見ればなんて事ない事でも本人からすると顔から火が出るほど恥ずかしかったりして、その恥ずかしい記憶がずっと人見知りの人の中に残ってしまっていて、新たな人間関係を築く時に緊張しすぎて、思った様に話せなくて、結果として相手から人間的な内面を誤解されてしまったり、その後人間関係として縁が続かなくなってしまうという残念な事になってしまう事もあります。

 

でも「人見知り」自体は私はそこまで悪いものだとは思っていなくて、裏を返せば「人間関係を築来たい人の内面をよくよく見てから関係を構築する」わけで、実際私には何故だか「人見知り」のお友達が数多くいますが、彼らは一度お友達になると「お友達になるまでの過程」で

私の内面を彼等なりにかなり観察してから信頼してお友達になってくれるので、そうそう簡単に縁が切れたりせず、長ーーーくお友達関係が続くことの方が圧倒的に多いです。

 

激しい人見知りの妹は実質的なお友達は1人だけですが、そのお友達とは10代の頃に会った人で20年経った今でもその人とは良いお友達で居るそうです。

私はと言えば、どんなに見た目が強面の人でも、その方の瞳の表情が余程ヤバい感じの人(勿論明らかにおかしげな人は除く)出ない限りは

「怖い」と思う事が先ず無いので、最初にその人の口から(もしくはその人の脳みそを経由して出た言葉としての文字)でた言葉で、その方の人柄を鑑みるので、見た目だけで相手の事を判断する事が殆どなく、怖がるって事もないのが私の特徴らしいので、有難いことに様々なジャンルに生きる色んなお友達との繋がりが色として薄かろうが濃かろうが、ご縁として繋がっております。

私は要は最初に「その人の色は何色なんだろう?」ってその方と接してみて、その人の色を知ってからその後もその人と繋がって行きたいのか?

もしくは、程々の距離感で薄くても繋がってるのか?

もしくは、決定的に自分とは合わないので、縁を自ら繋がないのか?

を考えて進めて行くタイプです。

 

まんじゅう怖いのお坊さんの様に

「怖い、怖い」と言いつつも、多分食べたら美味しいみたいに人見知りの人達というのは本当は人間にとても興味があるけど、昔に嫌な思いをした記憶が色濃く残っていて、その記憶の呪縛から解き放たれずに、次の1歩を踏み出すのが怖かったり「相手が不快に感じたら?」とか「恥をかいたらどうしよう?」とかの方の不安の方が大きくて、ご自身から行動に移せないまま、繋がりたい人と繋がれてないだけなのではないだろうか?と私個人としては人見知りの人と仲良くなる度に感じる事です。

 

私はいつでも、先に自分の全部をさらけ出して「はい、どーぞー」「私はこんなでーす」「こんなで良ければお友達になりますかー?」というタイプ笑

そのスタイルと、外見と話し方は謎に人見知りの方の人見知りガードを割と早く解除してくれるらしくて、色んな素敵な人とお友達になれています。

人見知りの方で、それに悩んでらっしゃる方の役に立つか?は不明ですが、私なりに思う「人見知り」については、こんな感じです。

 

いつか、何処かでお会いする人見知りの方がもしかしたら、この記事を読んで、少しでも初めの1歩を踏み出せるキッカケになってくだされば幸いです。

 

 

 

 

嬉し涙

 

今日は月に1度のメンタルクリニックの日。

体温爬虫類に変化は特に無し。

3月末に父が亡くなってバタバタした事。

自分なりに、亡くなった父に対して

「父親としてはどうなの?」な父親だったけど

自分としては父を大好きだった事。

自分なりにちゃんと見送りが出来て

それなりに泣いたり出来た事

いわゆる、父への確執とか、恨みとか

そーいう感情なく、サヨナラ出来た事。

なんかを話して終わり。

自律神経ぶっ壊れで体温爬虫類と、大復活しちゃった不眠症の不眠のお薬だけ貰って

(体温爬虫類は、お薬云々ではどーにも

出来ないからお薬とかは無い)

終わりだったけど、今の主治医に

「よく頑張った!と、自分を褒めてあげて

下さい」

 

と、仰って貰えて嬉しかった。

そのまま、普通に診察終わって処方箋貰って

次の医療機関へ移動している時に

「ああ、私は褒められたかったのか親に対しての自分のこの気持ちの昇華具合を」と自覚してから改めて父親の死を再認識したらなんだか涙が出てきた。

生まれてこの方父親に褒めて貰えたのは

 

私が作ったカレーライスのカレーの味と

(母親の作るカレーとは材料が全く同じでも謎に味が違うらしい)

 

編み物をした時の色のセンス

 

の2つで、そもそも自分以外の人間に

興味が無かった父親に褒められる事自体が皆無

な事が当たり前だったので

きっと幼い頃から

父親に限らず母親からも自分の存在に

気づいて欲しい。

褒めてもらいたい。

妹が一身に受けている愛を何故

自分は貰えないのだろう?

と、無意識に親の顔色をずっと伺いすぎて

育った幼少期。

そんなこんなで、拗らせすぎた私は成人してだいぶ経ってから病み散らかすのだけど

答えはきっとごくごくシンプルで

「少しでも褒めてもらいたかった」

「頑張ったね」って言ってもらいたかった

自分でも拍子抜けする位に間抜けすぎるけど

それだけだ。

それを、今日ズバリと主治医に言われたら

父が亡くなってから溜まっていた色ーーんなモヤモヤが心の奥底からスっと抜け出たかのように軽くなった。

そんな感じで道端で日傘さしながら1人でハラハラと涙を流しつつ歩くっていう怪しさ満点な徒歩で内科のあるビルに到着した午後15:30

 

母親との確執は多分母が亡くなるまで続くのは目に見えているけど。

そうだったとしても。

 

悲しい涙も

悔し涙も

嬉し涙も

涙は色んな意味で脳を心を浄化してくれるから

泣けるうちに沢山泣いておいた方がいい。

 

今日は良い涙を流せた日だった。

 

 

 

 

 

 

またな

2021年3月26日

父親が死去致しました。

前日に明け方までアルバイトをしていて、爆睡していた私は母親からの電話に気づかず、起床後慌てて留守電を聞いたら泣き喚いている母親の尋常ではない声を聞いてかけ直し、状況を、把握。

 

一回目の治療で、直ぐにまた口から食べ物が食べられると楽観視していたものの、勿論食道がんステージ4で、ろくに治療後の見込み等肝心な所を全く聞かずに治療に臨んだので当たり前に口から食べ物が食べられる様になるはずも無く、彼はきっと、とても落胆したんだと思う。

が、実に父親らしい最期だったとも感じた愚娘でした。

 

治療に臨むと昨年末に突然聞かされた時に

「正気?」と思ってその後手術云々の前に担当医から説明があると聞き、直接父親の携帯にメールするも「母に全て任せているから、母を信じたい」と、ある意味最強の夫婦の在り方や、強い絆を見せつけられ、母は母で治療についてはろくすっぽ聞く気もなく「とりあえず、お医者さんが治療するって言ってるんだから治るだろ」的な考えだったらしいけど、その母を最後迄信じ続け、例えその判断が間違っていたとしても、父親としては何の異論も異議も無かったんだろう。

そして、私は最後まで彼等夫婦の中で「家族」として扱われていなかった事も痛感したけど、それでも、きっと父は「これ以上治療しても自分の思った様な結果は得られない」と、悟ったんだろうなと、思える程に、父親が大好きだった実家の桜が満開の時期に、窓からの一望が全面満開の桜で埋め尽くされる時期に、自分の部屋からその綺麗な桜を愛でながら、亡くなって

逝ったのだと思う。

母も、甲斐甲斐しく毎日文句や愚痴を言いながらも父の世話をして、妹とはどうやらマメに連絡を取っていたようだし、きっと母はあんなに自分が父に愛されていた自覚もあまり無い様だけど彼女なりに添い遂げたという達成感は半端ないみたいで、私は何だかとても彼等を見ていて羨ましかった。

遺体引き渡しの時に痩せこけた父の体を見て

家族の中で私1人だけ泣いてしまって姪っ子に笑われたり、火葬場で父がお骨になるまで、誰一人父の話をするでもなく、全く別の話をしているのについて行けずに、1人退席して外で勝手に泣いたりしてなんとか、ちゃんと自分の中での父親への弔いは出来た。

 

今、思い返せば

日々楽しそうに専業主婦をしている母に憧れて昔も今も夢は「お嫁さんになる事」だった私が生まれて初めて小学5年生で作っためちゃくちゃ失敗したフレンチトーストを食べて「美味しい」と褒めてくれた父のお陰で私はお料理をする事が今も好きなのかもしれない。

 

自分のポリシーは絶対に曲げない。

「世界の中心は常に俺」な父親で私達姉妹には1ミリも興味を示さなかった父親だったけど、私はそんな父の事が大好きだったし、そんな父と、結婚して毎日、毎日父の為にご飯を作り、靴を磨き送り出す母の姿に憧れた。

 

どんなに周りから「なぜ?」と言われても

やっぱり私は亡くなった今でも父が好きだし

母の事も嫌いにはなれない。

 

苦しくなったり、悔しくなったり

色んな幼少期の頃の事で傷を未だに抉られたりするけれど、それでもやっぱり私は彼等両親の事が好きだ。

今でも、これからも。

両親にとって私は無意識的に家族ではないらしいけど、それでも私の礎を作ったのは彼等

両親なのは間違いない。

音楽が好きで、コーヒーが好きで

絵や映画を観るのが好きで

美味しいものを食べる事が好きで。

私が今好きな物の基盤を作ってくれたのは間違いなく両親だ。

「謎の演者気質があるね」と、大人になってから出会った人に言われた事があるけど、私にはそんな、気質は全くない。

しいて言えば多分、それは父親の気質だ。

彼は祖父の影響で能を舞う人だった(高校時代)

学校でも常に目立って、何らかを同級生の前でなんとも思わず発表するのなんてお手の物だったそうだ。

私は彼の顔面だけを生き写しに、生まれてきて

彼の自信満々な気質は1ミリも受け継がなかった笑

人見知りはせずに、幼い頃から誰にでも挨拶していた子供だったらしいのは親から聞いたけど、だからといって自分の気持ちをハッキリと周りに昔から伝えられていのか?と言われると多分そうではなかったような気がする(というか、小学校3年生位までの記憶があまり残っていない)

 

多分、周りから見たらまあまあな中流家庭

の、ソコソコいい暮らしを、出来ていたごく一般的な家庭に見えたと思う家庭だったけど、割と独特な家庭だったけど、そんな独特すぎる私の家族、私は好きだったよ。

きっと今頃、あっちの世界でも相変わらず「世界の中心は俺」でマイペースにやっている事だろう。

 

私は父と母の様に結び付きの強い絆を築ける様なパートナーに今生で出会えるのか否か?

すら危うくて、なんだか笑ってしまいそうに底抜けに悲しい時もあるけど、私らしく、楽しく

凹み過ぎずにマイペースにやっていくよ。

生きているうちに父親に一言伝えられなかったのは「俺は子供なんて欲しくなかった、お母さんがどうしても欲しいって言うから仕方なく作った、作っただけでも有難く思え」と言われてから「いや、それ思ってても言ったらダメなやつ」と感じていたけど。

それでも、私は貴方の娘に生まれて良かったと思って居るよ。と、伝えられなかった。

 

 

父よさらば。

また、いつか何処かで会おう。

その時にはその言葉を伝えるから。

またな。

f:id:neco0121:20210411002447j:image

先程申し上げましたが何か?

去年末に食道がんステージ4を宣告され、何故か治る気満々で入院していた父親が一旦治療を終えて自宅に戻ったそうな。

 

で、母親いわく、父親は治療さえすれば

また、口から食べ物を食べられると信じて

治療する事にしたそうな。

 

小学校低学年からヘビーにタバコを吸いまくり、そんなに強くもないお酒をサラリーマンの営業だった父は大好きになり、定年後は「それは確実にアル中の飲み方やないかい。。」を定年してから13年間続けてきた人間が1ヶ月半の胃瘻だけで、そう易易と口から食べ物を食べられる状態にならないであろうな。。と、昨年末にその話を家族の誰よりも遅くに知らされた私は、一応その家族の中で唯一「誤り」であったとしても、ガン宣告を3回された人間だったのと、私の周りに癌で闘っている友人・知人がそれなりに居たのと、ドクター運だけは有難い事に謎にめちゃくちゃ良くて、ちゃんと、今私の身体がどういう状態で、恐らくこういう結果の場合は治療したらこのくらいは体力復活するかもね。的な事を的確に教えてくれるドクター達だったし、今もガン宣告されがちな炎症を起こしがちな婦人科系統は30代の時に手術してくれた執刀医が癌専門の大学病院に異動なさって、3ヶ月置きに、ガンに関する様々な話をして下さっている。

 

ので、年末に入院して年始に胃瘻の手術して、その後抗がん剤や、放射線治療に臨むと言う両親の話を聞いた時は「は?あ?え?」「ステージ4で、退職後面倒で健康診断1度もしてなくて、好き放題に拍車かかって体に悪いことしかしてなかった70代が??」とは、思ったけどそんな事言えるはずもなく。

年始の胃瘻の手術前に主治医から今後の治療方針云々の説明がある事を聞いて、冷静さを失っている母に話しても言葉が通じなかったので、直接父親の携帯に聞いた方が今後の父が生きていく上で選べる道の選択肢が増えるかもよ?的な感じの事柄を項目別にして、送ったものの父親の返事は「全部母に任せてるから知らない」だったのと、母は具合が悪くなった父親を目にして無意識に喜んでいたので「あー。。またか。もう好きにしてくださいね、知りませんからね」と、そっからは「とりあえず、死んだ時は連絡してくれ流石に」とお願いしていた。

 

で、今日母から電話が来て話を聞いたら1回目の治療を終えたものの「口から食べ物を食べられないなんて、聞いてなかった!」「こんなの蛇の生殺しだ!」「生きてる意味がない!」と父親は喚き散らしているらしく、母親はそんな戻ってきた父親を邪険に扱い、また、祖母の介護の時の様に無意識に母の長年の恨みをぶつける介護を父にしている様だった。

 

「だから、言ったのになぁ」と思ったけど、まあ、言っても仕方ないし、選んだのは彼ら夫婦自身なのだから、自分の選んだ事に対して、周りに喚き散らし、周りのせいにして、結果自分も周りも嫌な気分にさせてしまうとは、何とも哀れな人生の最期だろうか。。

 

2人とも立派な学歴でその後一流企業に就職し、そのまま結婚。

「世界の中心は俺」な父親と「この世の姫は私だけ」の母。

 

私は、今までの人生でICU入るレベルの入院5回と、それとは別にガン宣告の誤報を3回されているが、その経験を踏まえて、定期的に検査に行くのは、癌が見つかったとて、延命治療する気は微塵もなく、何なら2019年の胆嚢炎の手術の際に何度も何度も付き添い人の居ない私に病院から「死ぬかもしれないからな」「知らんぞ?いいのか?」と念を押され、死ぬ準備万端な私が助かりそうにない疾患になったら、延命治療なぞせずに、余命を逆算してどれだけその時の自分の出来る範囲内で残りの人生楽しめるのか?に振り切って楽しむつもりで、検査を定期的に受けているし、死ぬ前に会っときたい人に会って、食べたいもの食べて、やりたい事やって、色んな人にお礼を言って死ねたら最高じゃないか!と思って生きている。

 

永遠に誰かの悪口を言う為でも、誰かに恨み節を言い続ける為でも、誰かに恨み辛みをぶつける為でもなく、自分と、そして自分に関わってくれた人達にお礼を言って、感謝の気持ちをちゃんと伝えてから死にたいのだ。

その為の定期検査。

その為の、自分の体調の把握。

過去15年間私は祖母宅に通い続けてずっと掃除をしてきて、時折母と共に祖母宅に行き、母が無意識に昔の恨み辛みを加齢でもう自分では何も出来なくなった祖母にぶつけているのを見て、本当に哀しくなった。

あれだけは、自分の親にしたくないし、あんな風になる自分を見たくない。

 

そして、誰にも礼を言わず、何かをしてくれて当然という態度の祖母から「感謝する事の大切さ」「それをちゃんと相手に伝える大切さ」を学び、誰に対しても「無力になった相手に対してのみ、恨み辛みをぶつける愚かさ」を母から学び、どんなに高学歴であったとしても「傍若無人に振る舞い、世界の中心は俺」な人間には友達が1人も出来ない事を父から学んだ。

 

その後、私自身の身体のポンコツさからの対処策を自分の体験で学び、メンタル的な問題も40歳にして最大で最後の抹消していたトラウマを思い出せ、その後PTSDも乗り越えられる程までに脳みそも回復した上での40代の前半戦が今年で終わろうとしている。

 

私の両親は死んでも何も学ばないだろうし、死ぬまで全てを誰かのせいにして、死んでいくのだろう。

 

娘としては最悪かもしれないが、私は

両親の事は嫌いにはなれないが、人間としてはおよそ、尊敬出来ない類の人間である事は間違いない。

そんな、罰当たりで親不孝者の私でも、一応

両親の後片付け位はするつもりですけどね。

まぁ、彼らの中で私は気が狂っている

最大の汚点のようだから、そもそも亡くなったとて、連絡くれるのか?すら危ういけども。

 

彼等夫婦がこれから歩む道は険しい事には違いない。

 

私はマイペースに生きるよ?

そして、様々な人達から沢山の事を学んで

吸収して、人生の後半戦楽しむよ?

例え死ぬ時独りぼっちで、見送ってくれる人が居なかろうと、私は私の人生楽しんで生きてくんだから。

 

だから、もう「なんで教えてくれなかったの?」って二度といわないでね?

私は去年末、最初にちゃんと伝えたよ?

 

 

生け贄

 

ある意味、私と妹は母方の血縁者からすると

生け贄だった。

 

私達の母方には三人の叔父がいる。

母は4人兄弟の末っ子で、一人娘だったので

それはもう、姫の様に大切に、大切に

祖父の並々ならぬ愛情と、鬼の様な束縛を受けながら育ったそうな。

 

で、叔父のうちの一人はロリコンだった。

私達姉妹は、冬休みと夏休みは転勤族だったけど、母方の実家と父方の実家に数泊母と共に

帰省していた。

私達姉妹は母方の実家に行くと必ず祖父母と共に住んでいた、ロリコンの叔父に預けられて

母は、祖父と毎日お出かけしていた。

先ず、私が2歳にいくか行かないか?位の時に祖父が私の異変に気づき「あの叔父さんには、裸を見せちゃいけないよ」と言われたのを今でもハッキリと覚えているが、2歳にもなるかならないか当時の私がその言葉を上手く理解出来るわけもなく。

そして、その後も祖父は、そのロリコンの叔父に私を預け続けて、帰省中は主婦業で疲れている母に付きっきりで、色んな場所に母を連れ出して買い物なんかをしていた様だ。

その2年後位に妹が生まれて、その後の帰省中も、祖父はその叔父に私達姉妹を預けて、母を連れ出して母のストレスの発散をさせていた。

 

そして、妹はその記憶を中学時代に思い出してから10年間立派に引きこもり、今は人生双六をちゃんと進めて2児の母として立派に生きている。

 

私は。。というと、40歳になるまで脳みそが

「この記憶を思い出させたらこいつ死ぬかも」ロックがかかっていたので、記憶が抹消されていたけど、40歳のある日。

バスに乗って主治医の所に行くときに突然

その脳みそのロックが外れて、2歳になるかならないか?の頃の叔父にされた様々な性的な虐待を、全て思い出した。

多分、バスで移動中にその叔父とそっくりな

話す時に地声が大きくて別に怒ってるわけでは無いけど、怒鳴っている様に話す男性達が沢山乗り込んできて、怒鳴っているかの如く話し始めた事と、脳みそのロックが外れたのもあって、一気に記憶がすべて蘇った。

何の感情も無いのに突然ガタガタ震え出して、悲しくも無いのに涙が溢れてきた。

「ああ、これがPTSDってやつかなるほどね」と、まあまあに冷静だけど、どう考えても異常だった。

 

結果として、母方の他の叔父達は私達姉妹がその問題の叔父に性的虐待を3歳になるまで受けていた事も承知の上で「どうせ子供だから記憶なんて残らないだろう」と鷹を括っていた様だ。

何より、彼らは彼らの最も大切なお姫様。

つまりは、私の母を守りたかったのだろう。

だから、それに気づいた祖父はその事を把握していたのにも、かかわらず私達姉妹を。

つまりは祖父の孫にあたる私達をその叔父に

生け贄として、預けていたのだ。

 

祖父に嫌な事をされた事はないし、むしろ

可愛がってもらった記憶しかないが、結果として祖父が私達を可愛がってくれたのは母を守るために、叔父に生け贄として献上している祖父の罪悪感からの償いという意味で祖父なりに償いのつもりで優しくしてくれていたのだとは思う。

が、ハッキリ言って異常だし、許せないけど、祖父はとっくの昔に亡くなっている。

 

そして、その事実をしるもう一人の叔父は、

港区のタワーマンションに夫婦で住み、ハウスキーパーが全て家事をしてくれる豪華な暮らしを楽しみ、ベンツを乗り回している。

 

私の両親はもちろんこの事を知らないし、そこそこに良い地域でそれなりに良い暮らしをしている。

 

そして、祖父や叔父達が守りたかった彼らのお姫様である私の母は、姫気質が抜けず、今では24時間365日誰かに文句を言う事しか出来ない残念な大人になっている。

 

私は、記憶が戻った事をタワーマンションに住んでいる叔父に話したら「君は昔死んでくれてれば良かったのにねぇ」と笑顔で言われた。

 

それが、本当のサイコパスだ。

そんな、叔父が、弱い人を守ります!という弁護士してんだぜ?

笑っちゃうだろ?

 

おかげさまで、その後PTSDも乗り越えて

あとは、そのクソみたいな血縁者がサッサと天寿を全うして死んでくれればもういっか。

と、思う。

 

ただ、今までの人生の中で一番胸糞わるく多分

一生許すことの出来ない事はきっとこの生け贄

に、された事だろう。

 

でも、人を恨む事自体ばかばかしいと思う私の性格なので、あとはその叔父達がサッサと死んでくれればもうどーでも良い。

 

それより、今後そういう哀しい思いをする子供や若い子が増えない事を切に願う。

 

本当、たまに、そんな事あったのに何で私は人間が、好きなんだろう?って自分に、呆れる事がめちゃくちゃ多いけど、やっぱり人と関わるのは楽しい。