あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

分類分けが必要ですか?

ジェンダーレストイレについて思う事。

 

ジェンダーレストイレについてココ最近かなりTLにこの話題が流れてくるんだけども。


実の伯父に5・6歳くらいまでの間それなりに宜しくない虐待をされた上で、多分その記憶が嫌すぎて脳みそから抹消した上で、40歳になって脳みそがロック解除して全部の記憶戻った人間から言わせてもらうと、大きない商業施設では作らない方がいいと思う。
というのが、個人的な意見。


今でもジェンダーレス云々関係なく、カフェとか飲食店で男女兼用の御手洗が色んな所に存在しているんだけども、ああいう性別を問わないおトイレが、個室で1人しか入れない状態であるのはまだ良いと思う。
スペース的に本当に狭いから。
ただ、お子さんを連れてる方は気をつけた方が良いと思う。
個室でも、大人が一緒に入れるスペースがあるから、こっそり隠れている人間は残念ながら存在する。


あと、大きめの商業施設だと、個室は完全個室でも男女関係なく出入り出来てしまえば、空いてる個室に潜んでいて、誰か別の個室に入ってきた時にどうこうも、勿論有り得る話なので、試してみてからダメなら考えようだと、じゃあその「ダメな例として被害にあった人は?」となる。


そういう被害に一切抵抗できない年齢であった人は、私のようにいつか、脳みそがロック解除して知りたくもなかった記憶を呼び戻すことだってある。


一生付きまとう。


「ダメな例だったねー」では済まない。


人の一生に対して、その「とりあえず実験してみようか〜」の人たちは、責任をそれぞれ持てるのか?


だと思う。
自分の子供や、家族や、
友達や、孫がもし被害にあって、一生病んだとした時に
「ダメな例だったからね〜」で済ませられるのか?


判断するのはそこではなかろうか?と思う。


実際、子供の頃に大きなショッピングセンターの水飲み場で何回も痴漢にあい、その度に親は目を離して居たので
犯人はもちろん捕まらず、挙句の果てに幼少期に実の伯父にあれこれされていたとか、初老になってから思い出したらやり切れない訳です。


そこまで、皆責任もって
「実験してみよう!」と言ってるのかなー?
と、思う。


勿論ジェンダーレスの人達に対して批判的に思う事なんて全くない。
そもそも、私は昔はバイセクシャルだったし、同性とも付き合ったこともあれば、女子トイレに入ると男性と間違われて叫ばれてどうしよう。。という悩みで悩んでいる友達も居た。
ゲイのお友達も勿論居たけれど、昔過ぎるのかもしれないが、彼らが希望するのはトイレ云々よりも、先ず婚姻関係を結べる権利であって、トイレ云々の話は聞いた事が無かった。
(時代が古すぎて、当事者がそれを指摘する雰囲気ではなかったのかもしれないが)


彼らが希望するのは、自分たちを分類分けして欲しい云々ではなく、ただ、人間としての権利が欲しい。
それだけの単純な希望であったと、今も昔も私個人としては思う。


そして、実の姪っ子に手を出すとか、どんな底辺なの?と育ちを疑う人もたまに居るが、失礼ながら、私の育ち及び家系としての血筋は残念ながら悪くない。
我が家の姉妹以外はみな伯父のや祖父母の代からそれなりの名門大学を卒業していて、日本国民なら知らない人が居ないであろう会社に勤務し、それなり良い生活を送ってきた親戚ばかりであり、実の親もそうであった。


身なりや血筋や、普段の生活態度とは全く違う、多分その人間の奥底にあるもっと精神的な「何か」が元々先天的に幼児を愛する性癖なのか、もしくは成長の過程で歪んでしまったのか?そこに対しての、善悪の判断がちゃんと付けられるのか?


は、育ちや血筋は多分そこまで関係ない。


そこはもう、自分を抑えられるのか否か


という個人の中の欲望といかに戦えるのか?だと思う。


勿論実験するのが全て悪いとは思わない。
ただ、実験した時に失敗例が出たとして、その「失敗例」となる事件に巻き込まれた人間の一生に対して貴方はそして、世間は責任を持てますか?
その時、その責任を犯人だけのせいにしませんか?
という事を、聞きたいな。。と思う。