あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

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【友達の人生】

自己肯定の低い人は「自分より弱い誰か」の面倒を見る事で自分が評価されている、求められていると思い、様々な意味で自分を犠牲にしてまで相手の事を優先しようとしてしまう場合があります。
かつては、私もそうでしたし、以前投稿した、だめんずが好きなタイプの人達も彼等と一緒にいる上で自分の中の承認欲求を満たしている事について触れたように思います。


病であっても、病でなかったとしても、無意識のうちに自分への自己肯定の評価の低さ故に、そのような行動に走る人多々存在します。


承認欲求が欲しいが故のそう行った行動による成り立つ関係は残念ですがいつか破綻を迎える事が殆どです。


そして、私もかつてはそうでしたが、例え、見返りを求めず、その友人の苦しみや悲しみや、生活そのものについても、力になれる事は出来るだけ力になりたいと、思って行動した時期も勿論ありました。
そういう関係を築いて残念ながら破綻してしまった関係もあれば、お互いをぶつけ合い、大喧嘩もした上で支え合うといういい意味で気を全く使う事なく付き合えるようになった友人もありがたいことに存在します。


そして、私がその事から学んだ事は、どんなにその友人の事を大切に思い、家族のように繋がりの強さを感じたとしても、やはり友人は友人でしかない。
という、事実であり、どんなに働きかけたとしても友人一個人の人生を私が友人という立場で背負って生きていく事は不可能だ。
という事実です。


これが、恋人同士や、婚姻関係が結べる相手だっとすれば「人生を背負う」まではいかなくとも、「人生を共に歩む」事は可能です。


しかし、友人は余程養子縁組でも組まない限り、法律的には他人であり、どこをどうみても友人=他人 なのは明白です。
その 他人 の人生を背負って何もかも面倒を見、共に生きていく。
それはおそらく病的な「共依存」という別の関係性となっている事でしょう。


それは、相手の人生を、背負っているつもりでお互いがお互いに利用し合っている。という、蓋を開けてみればなんとも悲しい関係に他ありません。


そして、健常者であっても、やはり友人の人生は背負って歩いていく事は勿論できません。


友人という立場だからこそわかる事。
恋人という立場だからこそ踏みこめる場所。
家族という立場だからこそ言えてしまう残酷な言葉。
などなど、お互いの、立ち位置や関係性によって言える事、出来る事、お互いの距離感。
ことごとく異なってきます。


何の見返りも求めず、その友人に尽くす事こそが本人の幸せであり、人生そのものという人も実際にはいらっしゃるかもしれません。
本人が心から幸せだと思うのであればそれは全く構わないと、私個人では思う事もありますが、友人は友人。
その大切にしている友人の人生そのものは自分のものにはなり得ません。
当たり前の事ですが、その事を理解せずに、頑張り過ぎながらも、必死に自分の人生だけではなく、友人の人生までも背負おうとボロボロになりながらも頑張る人を何人か見たことがあります。


残念ながら、それは不可能なのです。
そして、その関係がいつしか共倒れになったり、そのご友人が別の依存できる相手を見つけたり。。といった場合にその関係は途方もない大きさで自分の心の中に傷を残しながら破綻してくことでしょう。


友人とは、お互いにお互いが程良く距離感を保ちつつ、時に助け合い、時に厳しい事を言い、時に馬鹿馬鹿しい事で笑い合ったりしながらそれぞれの人生を歩みつつ、人生の途中途中で交わりながら関係を紡いでいく。
そんな有難い関係ではないでしょうか。


無理やり頑張り過ぎてせっかくの縁を断ち切るのではなく、自分にとって必要な縁を手繰り寄せ、大切に長く続けていく。
そんな大切なご縁が読んでくださる方にもあればなと思います。