あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

暗闇の中で

【手当の仕方】

 

昔、メンタルの調子が一番良くない時期の私は本当に真っ暗闇の中を必死にどこが前なのか下なのか、右なのか左なのかもわからないまま、もがいてどうにかしてとにかく前へ進めないものかとがむしゃらに闘っていた時期があります。


その頃には、例えば誰かと接していて不要意に傷つけられる言葉を投げつけられることもしばしばありましたが、私は傷つける言葉という矢がどこから放たれるのか、そして、どこから狙われているのか、それよりも自分が攻撃されているのか、怪我を負っているのかすら気づかない程にただがむしゃらにもがいていた時期が年単位で存在しました。


決してその時期が無駄であったとは思いませんし、その時期のおかげで、自分が傷を負っている事、手当が必要な事。
攻撃して来る言葉を放つ人物が誰なのか。などを把握する事が出来るように思います。


ただ、気づけるまでにかなりの時間を要し、その分手当も遅れ、結果的にメンタルの治療が長引いた。
という結果も事実です。


今現在の私はほぼ穏やかな日々を、過ごして暮らせていますし、勿論親と交流する上で不要意に傷付けられないようになるべく物事を把握して、攻撃対象になりそうな事柄から逃げる力もつきました。


しかし、脳みそが様々な症状を、乗り越えて「大丈夫だ」と判断すると昔辛かった記憶をわざと思い出させないようにしていたブロックの鍵が外されてしまう事もあるので、自分ではそんなに傷ついていなかったと思っていた事柄を不意に思い出して、急に悲しくなったり、苦しくなったり、また、傷つけて来る当人と接しているうちに昔を思い出して気分が悪くなってきてしまう事もあります。


言ってみれば「古傷が痛む」感じになるのです。
もしくは、治っていたはずの傷にまた膿が溜まって切開して膿を出してあげないと、どんどん膿が溜まり続けていつかまた、破裂してしまう場合もあります。


そう言った場合に、自分でその膿を出して手当をする仕方を把握しているかしていないかによって、再度通常運転の生活レベルまで浮上してくるまでの時間が異なってきます。


手当の仕方は勿論人それぞれ異なります。
例えば、何かものスイッチを切ってとにかく眠る。
という人もいれば、誰かに話を聞いてもらう。
という場合もあるでしょうし、とにかくわんわん泣く。
という場合もあるでしょう。


気分転換と若干似ているようにも思えますが、気分転換と違うところは「なによりも自分の感情に素直に行動する」事でしょうか。
普段、穏やかな生活を送っていればいるほど、気分の落ち込みや、自分が意図しない涙が突然流れてくるなど、通常であれば、マイナス要素に見える事柄が起こるとなんとかその状況を打破して元の穏やかな生活に戻るようにと、不安をなくす頓服薬に頼ったり、泣く事が悪いことのよう感じて、泣くのを我慢したり、周りに勘付かれないように明るく振舞ったりしてしまう場合が多いのです。


そうすると、表面上はまるでいつもと変わらない状態に戻ったように自分では思えても、結局はその時に蓋をしてしまった傷は自分の気づかないうちにジクジクと悪化し、知らない間に余計な膿を更に溜め込んでしまう事になりかねないのです。


私も、つい最近までは気分が落ち込んできたり、意識していないのに急に涙が溢れてきてしまったりした時に最初は「これは異常だ、何か対処してこの落ち込みや涙を止めなくては」と考え、主治医に頓服薬を処方してもらえないかを打診した事もありましたが、主治医の答えはノーでした。


それは、脳みそがリミットを解除した為の過去の悲しみであり、やっと自身でその事実を受け止めた瞬間でもあるため、存分に悲しみ、泣き喚き、そして落ち込みましょう。
と言われたのです。
私はとてもびっくりしました。
まるで、自分の病気の状態が悪化して後戻りしているんじゃないかと思うほどに調子が悪くなる時期もありましたし、食事をしている時に何も意識していないのに勝手に涙がボロボロと流れてきた事もあります。


それでも、それは過去の暗闇の中で必死にもがいていた時の涙や悲しみ、落ち込みとは明らかに種類の違うものだ。
と、恐る恐る感情の流れるままに眠り続けてみたり、涙が溢れてきても無理に止めず、そのまま泣いてみたりしたところ、悲しかった事実をきちんと再認識し、受け止め、冷静になれる事に気付きました。


悲しい事柄や昔の記憶がそのように自分なりに手当てをしたからと言って、悲しみが消えるわけでも、無くなるわけでも勿論ありません、悲しいものは悲しいのです。
でも、それで良いのです。
悲しい事柄を悲しくないと自分の感情に蓋をする事で病気になった私たちにとって、例え10年前のことであっても、きちんとその事柄を悲しい事と認識して悲しむ事が出来たことこそが、治療の効果の現れなのです。


そうして、自分の手当てをした後は、浮上時間が昔に比べて遥かに早く、そして自分自身もほんの少し気持ちも楽に、人間的に成長して通常の生活に戻れるのです。


これを読んでくださっている方々が、ご自身なりの手当てを見つけられ、そしてイザ、脳みそのリミットが外れて悲しみが襲ってきた時に、存分に悲しむ事が出来ることを願っております。


多分、その悲しみの闇は昔の真っ暗闇とは全く違うものなのですから。

 

3年目の浮気

【諦めと許し】

メンタルの治療では、度々その向き合う問題に対して「諦め」と「許し」が必要になる場面が多くみられます。


一見「諦め」は悪い事のように捉えられがちでもあり「許し」は諦めよりかはまだ良いけれどやはりあまり良いイメージは無い言葉として普段扱われているように思います。


確かに、両方共良い状態の時に使う言葉ではありませんが、メンタルの治療の際に、この二つの言葉を上手く利用して理解し、治療に取り組む事によって、本人の状態が格段に良くなる場合があります。


私の場合の例としては、病気の原因として「親との関係」が原因を占めるうちの大部分となりましたが、病気になってから、両親を責めた所で彼等が変わる事はなく、表面上なんとなく腫れ物に触るかのようになり、一見変わってくれたように感じる場合もありますが、根本的な所は変わりようがないので、フト気を許した時などに全く同じような傷つく言葉を受けたり、考え方の相違が生じて余計に落ち込んでしまう事もあります。


そういった場合に頑張って無理やり家族に自分を理解してもらおうと努力するのではなく、ある程度の「諦め」を親に対して付けることにしたのでした。
「この人達は何を言っても変わらない」決してプラスの思考ではないにしても、達成できようもない事に神経を注いで余計に病気の闇の中に沈んで行くよりかは、諦めを付けて自分自身の新しい世界を見つけに行く事の方がよっぽど疲れないという事実です。


そして「許し」の部分ですが、これに対しては私の親の場合の話になりますが、親は自身が子供時代にまた、自分の親から同じように何かしらの寂しさや苦しさを与えられ、微かに本人も周りも気づかない程度に病気の闇を抱えたまま大人になり、実際に自分が子供を持った時に、気づかず内に自分の親と同じようなことをしてしまっている。
何故なら「親」としての見本は自分の親しか見てきたことが、ないから人間としては当然の事なのです。


例えば、悲しい事に虐待を受けて育った人はやはり自身が子供を持った時に輪廻して、同じように自分では嫌だと思っていても自身のお子さんに虐待をしてしまう事があるケースが散見される事があります。
逆も然りで、「親がこうだったから、自分は絶対にそんな事はしない」と反面教師になって、逆に素晴らしい親子関係を築けるひとも、勿論いらっしゃいますし、今後もっと増えてくれたら。。と願っています。


そういった意味で最初は「諦め」というマイナスな感情から始まった親への気持ちがいつの間にか「許し」に変わっていく事柄も段々と増えていきます。
勿論、全てを許せたわけでも、ありませんし、未だに許せない部分も親に対しては多々存在しますが、毛嫌いして会話も出来ない状態だったり、年に一度も顔を合わすことすら出来ない。と言ったような、本当の意味での不仲にはならずに済んでいる。
という、状況で今現在に至ります。


誰かを恨んだり、憎んだりする事は確かにとてもエネルギーを使い、そのエネルギーを生み出す事によって、逆に糧として元気に生きていけるかもしれません。
その人から恨みや、憎しみを奪ったらもしかしたら抜け殻のようになって、元気に暮らせなくなるかもしれません。
その時期はおそらく誰にでもあって、その時期に無理矢理そのマイナスな感情を押し殺した方が良いわけではありません。


ただ、段々と自分でその憎しみの感情に対して「自分の希望はこのままでは一生通る事はない」というゴールが薄っすらとでも見えてきた時点で、そのまま、マイナスな感情を持ち続けて日々を不愉快に生きていくのか、それともその事柄に対して「諦め」を見出して別の事に視野を向けて生きていくのかは本人の自由なんだと思います。


私の場合は「憎しみ続ける、恨み続けるエネルギーが無駄だし、疲れる」と気づいてからも、暫くは相手にアピールして分かってもらおうと必死でしたが、闇は深まるばかりだったので、ある日スコーンと「あ、やめよう」と気持ちが切り替わって良い意味で「諦め」がついたように思えます。
諦めが付いた後も、勿論親は変わっていないので、フトした時に傷つけられる事も今でもしばしばありますが、それでも自分の中で「諦め」を付けた事によって、憎悪の感情は湧き上がらなくなり、悔しいけど、一瞬沈むものの、仕方のない事だも諦め、許すことで自分の通常の日常を取り戻すペースが早くなったように感じます。


諦めと許す という言葉はマイナスなようでいて、実は味方につけると、とても過ごしやすくなるプラスの言葉なのだと、病気を通じて実感している日々です。


現在、病気を抱えている方や、闘っている方が一日も早く「諦めと許し」の気持ちを受け入れて、今いる闇の中よりも少しでも明るい場所へ浮上できることを心から願っております。

石の上にも三年

【趣味的なもの】

私は、発病後五年程経った頃に謎に
編み物を急にしたくなり、それまで全く経験したことのない「かぎ針編み」を独学で勉強して、編みぐるみや、ちょっとした小物を編むようになり、それから10年程経った今も、一年のうちに数回は何かしらを編んで人にプレゼントしたり、自分で使えるものを作って、実際に使っていたりします。


「継続は力なり」


で、一時期は雑貨屋さんに置いてもらえる程になりました。


気分転換の方法は世の中に沢山ありますが、なるべくお金のかからないものや、何かしら達成感のあるものなど、興味は人さまざまだと思います。何事も飽きずに程々に自分が楽しめる趣味を続ける。というのは、とても精神衛生上いい効果を表したように思います。


私の場合にはたまたま、編み物でしたが、人によってはゲームだったり、料理だったり、運動だったりするのかもしれません。


どんな趣味でも継続して行うことで、趣味の中身のレベルアップや、自身の心の充実などに、明らかに差が出てきます。


特に闘病中は、金銭的に苦しくなる場合が多いので、100円均一などで購入できる、何かしらで行える趣味を新たに持つのも、普段の生活に彩りを持つことが出来て、少し生活にメリハリが出てくるかもしれません。


今日日、100円均一では、様々なものが揃えられているので、何かしら少しでも興味の持ったものを始めて、徐々に興味の幅を広げていったり、何かを作ったりする事による達成感で、自分に対する気持ちに少し余裕が持てるようになるかもしれません。


私も最初にかぎ針編みを始めた時は誰にも教わることが出来なかったので、毛糸を引っ張りすぎて途中で切れてしまったり、こんがらがって解けなくなったり。。と形になるまでにだいぶ時間がかかりましたが、初めて編みぐるみを編み上げた時の嬉しさや、充実感は本当に素晴らしい物でした。


それまで、自分を否定し、彩りも何もない生活から、一変に「あれも作ってみたい、これも挑戦してみたい」という彩りが生活に戻ってきたのを今でも覚えています。


趣味嗜好は人それぞれ違います。
是非、これを読んでくださっている方も何か、負担のかかりにくい生活の色を取り戻してくれる「何かしら」が見つかる事を願っています。


選ぶものによっては向き不向きは勿論ありますが、最初から上手くいくことはまずありません。
何よりも、上手くできる事を目指すのではなく、気分転換として、失敗を繰り返したとしても、苦痛でない限りはマイペースに継続してみると、案外自分の新たな一面を知れるかもしれません。

造ること

【私が感じたメンタル治療】

メンタルの治療は、私の経験的な感想としては、それまで自分の人生で培っていた判断力や、過ごしてきた中で育ってきたプライド等を一旦全て壊して全くの更地にしてから、また家を建てる為に自分でレンガを一つ一つ積み上げて少しずつ、少しずつ自らの家を造っていく作業であると、私は感じました。
治療が終わったら家造りが終わるわけではなく、治療を終えてやっと家の基礎が出来たくらいで、その後の人生を過ごしていく中で一つ一つ積み上げてその人生が終わりを迎えるまで、ずっと進化しながら造っていくものなのであろう。
ということです。
多分「治療が終わったら、全部終わり!」でその後本人の成長していく意志が無ければ、家は永遠に建つ気配もなく、結局またいつか何かしらの壁にぶつかった時に自分のダメージに気付かず、いつのまにかまた闇の中に迷い込んでしまい、再度イチから更地に戻す作業を繰り返していくだけなんだと思います。


今現在の私は、治療のお蔭もあり病気以前では出来ない思考や自分の意思を端的にではなく、分析した上で何らかの判断を下す事も出来るようになりました。


ただ、一つ治療の影響として「自分の判断が果たして客観的に見てもおかしくないものなのか」については、どちらかと言えば自信を持てない事柄が増えた事もまた、事実です。


病気になる以前の私はどちらかと言えば世の中には「善と悪」「白と黒」しかなく、自分がおかしいと感じた事は誰しもがおかしいと感じるに違いないと、決めつけてしまう事が多くありました。
メンタルの治療をしてからは「世の中にはグレーゾーンもある」事や「必ずしも、物事は自分と同じ様に他人にも見えるわけではない」事「物事を多角的に見てから判断する事」等が理解できて、昔程物事を決めつけたり、自分の考えだけを正義として相手に押し付ける事は少なくなってきた様に思います。


ただ、メンタルの病気になる前の自分の考え方や判断。
また、病気中の一番酷い症状だった頃の破茶滅茶な自分を知っているからこそ、たまに「この、自分の考え方は一般的な事柄からかけ離れているのでは無いだろうか?」と分からなくなってしまう事があるのも事実です。
それはおそらく、病気中に壊れたメンタルが酷い壊れ方であればあるほど、造り治した自分との落差が激しければ激しい程、フトした時に「あれ?これはもしかして一般的な判断からはみ出してる?」と自分の考え方に自信を持てない時があります。


今現在の私はその時々で自分に余裕があれば、直ぐに判断を下さずに、自分なりにじっくり考える+男性・女性共に信頼できる人に「客観的な意見を聞かせてください」とお願いして事柄を何かしらの手段で伝え、相手の意見を聞いた上で、再度自分の中で判断を下す。


という作業をすることにしています。
少し、自分に自信がなさ過ぎるのかな??とも感じますが、急いで決めなければいけない事で無い限りは、自分で納得した上で判断した方が後々悔いが残らないかなぁ。
と思うのですが、人によっては「なぜ、ストレートな感情のままに動かないんだ」とか「何事も分析してからでないと決められないのか」とか「感情が見えにくい」という風に受け取られることもしばしばあります。


私の今後の課題としては、人間としていかに成長しつつ、誰かに聞かなくても自分の判断に少しずつでも自信が持てるようにする事なのかな。
とも思えるようになって来ました。


本人が諦めない限りは、どんな形であっても、人間は成長出来るのかもしれません。

しとしと雨

【気圧による体調不良】

そろそろ日本全国梅雨に突入する時期でしょうか?


ここ最近では夏日の日もあれば、突然気温が下がったりして涼しい日もあったりしますが、今後梅雨に入って日照時間が短くなったり、曇りの日ばかりで、気圧が不安定になると、体調を崩す人が多くなります。


メンタル系の方は特にその傾向が強く見られる場合がありますが、私自身はメンタル系の調子がMAXに酷い時にはそのような気圧や、天気に左右されることはありませんでしたが、年齢的にホルモンバランスが乱れがちな年齢に差し掛かってから突然気圧による偏頭痛に悩まされたり、天候が優れない日は朝起き上がれなかったりする日が増えました。


ホルモンバランスによる、体調不良の場合にはメンタル的にそこまで落ち込むことはなくても、やはり、自分の身体が思うように動かない。というのはそれなりにストレスがかかります。
また、メンタル的にも影響を受ける方の場合には原因が何が何だか分からないけれども必要以上に落ち込む傾向にあります。


それぞれの置かれた状況にもよりますが、もし、休める状況にある人なのであれば、思い切って休んでしまうのが楽です。
但し、休んでいる自分を責めてしまう人の場合は落ち込みを更に深めてしまう場合があるので注意が必要です。


もし、お仕事などでどうしても休める状況にない方の場合には、漢方薬や、自律神経系のお薬で症状を軽減できる場合もあるので、お医者さんに相談することをお勧めします。


どちらにしても、全く影響を受けずに元気いっぱいにお薬を服用して戻る。
というのは、どちらかといえばゼロに等しい可能性なので、どこかで「これは天候が影響しているから仕方ない」とある程度諦めをつけることが一番本人の心が楽になる方法だとは思います。


誰しも、「体調が悪い」事は嬉しくありませんし「体調不良による休養」はあまり本人にとっても喜ばしいことではありません。
それ故に周りからは理解されづらく、余計に自分で自分を追い込んでしまう事が多く見られますが、自分を追い込んでしまうと、その後例え梅雨が終わった時期が訪れても無理をしたせいで以前よりもずっと調子が悪くなり、体調が戻りづらくなる場合が多々あります。


ある程度は、自分の不調を認めて少し甘やかすことも必要なのかもしれません。

グレイテスト・ヒューマン

LGBTについて】

最近ではセクシャルマイノリティーの言葉としてLGBTという言葉が浸透してきましたが、まだその言葉が殆ど日本に浸透していない頃に同性を愛する人とお友達だったり、仕事場の同僚として、男女共に過ごした事があります。


私自身は特に同性が同性を好きになることに対してはなんとも思わず、どちらかといえば「人間の一個人として恋愛感情が芽生える」という事なのだろう。
と勝手に思っていました。


その人達が口を揃えて言うのは「幼少期から、自分は異常なんだと思った」という言葉でした。


世間的には「異性を好きになるのが当たり前」という事をそれこそ幼稚園に入る前位から周りから刷り込まれて育つ中で、自分が特に気にしていない時期から彼等は自然と同性に目が行き、心惹かれていく事に自分自身で気づいた時に、まず最初に「自分はおかしい、何かの病気なんじゃないだろうか?」とショックに陥り、その後「この事実が家族に知れたらさぞかし大変な事になるであろう」と考え、どんどん自分の中にしまい込み、悩み続けてしまう。
という事実でした。


例え、親にカミングアウトしたとしても、「親を悲しませてしまったのではないか」と更に悩みのどツボにハマる人も居ます。


なので、彼等は彼等なりの地下ネットワーク的な物を張り巡らして、まだインターネットが普及するだいぶ前から、繋がり、独自のグループ(?)的な物を作って活動しているのです。


なので、同性を好きではあるけれど、「異常だ」と自分の中で判断し、気が乗らないまま結婚した後にやっぱり違和感を感じて、そのまま婚姻生活は継続しながらも、LGBTのイベントなどに参加する人も勿論存在します。


ここ最近では表面に出て公表する人も増えてきましたし、タレント活動をカミングアウトをした上で続ける方も増えてきたので、「偏見」という物が存在はしているものの「そういう人達が居るんだ」という認識は広がって来たように思われます。


今まで「いかに、世間に隠し通すか」をテーマに地下ネットワークだけで生きてきた人達が、急に「ハイ!宣言してください!」と言われても、本人達も戸惑ってしまうと思いますし、知らないまま長く当事者と接して居た人達も戸惑う事もあるとは思います。


ただ、性格が何もかも全て一致する人がこの世に存在しないように、人間は千差万別、多種多様な生き物です。
カミングアウトしたからといって、その人自身はなんら変わりのない事です。
(勿論、どちらかが、どちらかに恋愛感情を持って居た場合には変わるかも知れません)
もし、友人であるならば、相手が恋愛感情を持って居なければそれは「ただの友達」以外の何者でもなくて「今までの関係となんら変わりのない関係」なのです。
勿論、恋愛相談などの内容的に相手が自分と同性って事はあるかとは思いますが、多分、違いはそこだけです。


お友達にカミングアウトするのはおそらく本人的には物凄く勇気がいることと思います。
それはその人との関係が大切であればあるほど、本人は悩み、苦しみ、自分の事を呪ったりもします。
それでも、嘘を吐くのは嫌だから ともし、カミングアウトしてくれたら、戸惑ったとしても、友情関係を断ち切らないであげてください。
もし、相手が自分に「恋愛感情」を抱いて居た場合は、「自分は興味が全くない」ことをキッパリと断った上でお友達関係を続けていくといいかと思います。


私は「友人」として彼等と接した事がありますが、彼等はとてつもない闇を幼少期から抱え、中にはメンタルを病む人も居りますし、悲しい事に自ら命を絶ってしまう人もいます。


「好きになる人が周りと違う」これだけで、そんなに幼い頃から小さな胸を痛め、傷つき、大人になるに連れてどんどん悩みの沼にハマっていってしまう。
人間として、人柄としてとても素敵な人だとしても、本人は決してその自分の素晴らしい部分を否定して生きてしまう。


もし、それが自分の友人や家族の中で悩んでいたとしたら、悲しくはないでしょうか?


現在、LGBTについてだいぶ表面化してきた世間になってはいますが、やはり今までそういう事に触れたことのない人達からは「分かりにくい」「どう接したら分からない」という意見も多く聞かれます。
なので、これからカミングアウトする方や、表面的に活動する人達は、分かりやすく、勿論主張するのは大切ですが「押し付け」にならないように、ただ、「存在して居るんだ」という事をまず、周りの人たちに認識させてあげてください。


どんな人達も住みやすく。
そんな、世界になると良いですね。

 

ここに居る才能

【映画好きスキ】

実際に映画館に観に行く機会は少ない方ですが、幼き頃からTVで放映される映画や、レンタル屋さんなどの出現により映画はずっと好きなものの1つです。


好きなジャンル的にはアクションやラブコメディー、サスペンスなどが割と好きです。


後は淡々と過ぎ行く映画もかなり好きな部類に入ります。


邦画・洋画に関わらず、興味が湧いたものに関しては見る感じなので、色々な作品を目にする機会がありました。


淡々と過ぎ行く映画は、一見何も起こらず、つまらなそうに見えがちですが、淡々としている分、出演者のほんの少しの心の動きや、繊細な瞳の表情なんかも読み取ることが出来たり、静かな映画の印象でも、何かしら実は強く訴えかけるものがある場合も多々あります。


また、BGMとして流しておくにも、静かな映画だと自然と馴染む物で、邪魔にならなかったりもします。


また、過去にまた作品であっても、何度も見返すうちに、出てくる何でもない台詞に自分が救われたりする一面もあったりするので、気分転換という意味でも、自宅で映画を見るのは割とおススメです。


映画館に出向くと、勿論大画面の迫力などは自宅で観るのと桁違いに素晴らしいですが、メンタル的に弱っている時は不思議と集中力が続かず、昔見れていた映画や本や物によっては漫画でさえも読めない。。という時期もあります。


そんな時には、ただ、笑えるだけの好きなお笑い番組や、落ち着いた番組構成の軽めの番組なんかを観ると集中力が途中で途切れる前に見ることをやめたり、番組自体が短めでちゃんと見終わることが出来る場合もあります。


自宅で映画を見るメリットは、途中で止められること。
お手洗いに行ったり、何かを食べたり飲んだり、細切れにして自分のペースで観れることでしょうか。
何より、映画館でジッと集中する気力のない時に周りへの迷惑(席を立つなど)を考えると余計に具合が悪くなったりするものなので、そういう時には無理をせず、自分の好きなものを好きなタイミングで観るのが一番ストレスが溜まらないのではないかと思います。


そして、そんな風になってから少し調子が良くなった時に観れる映画館での映画はとても素晴らしいひと時になりますし、家で改めて見る見慣れた映画の中から、今まで気にした事もない台詞の一部分が、その後かけがえのない程大切な一文になったりする事もあります。


泣いたり、笑ったり、、当たり前にできる自己表現がメンタルを本格的に病むと能面のように表情さえ作れなくなる事もあるので、映画や漫画、ドラマや音楽、何の娯楽であっても、そういう状況から脱せるのはとても気持ちの良いものです。


私の大好きな映画の中でだいぶ調子が良くなってから改めて見直した映画の中の台詞がそれまでは、何ともなかったただの台詞なのに、大切な一文になった台詞があります。


「ここに居る才能」


です。この台詞を聞いた時に「ここに居る才能」を私の中で『すなわち、ここに居ても良い才能』なのかな?と思ったらなんだかとてつもなく嬉しくなった覚えがあります。


そんな風に何年も見慣れた映画であっても、いろんな発見のできる気分転換に「映画」というジャンルも入れておいてあげてください。