あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

自由のその先

【完治宣言を受けた後の課題】

私はつい先日、自分の中でおそらく最後であり最大のパンドラの箱が開き、自分の頭の中で幼い頃の様々な状況を理解し、パズルのピースが、全て収まって「自分の闇の部分である過去」というパズルを完成させることができました。

 

精神薬については、主治医の方針もあり、もう何年も服用していませんが、睡眠導入剤については元々不眠に偏りがちな性質のため、現在も続けています。

 

一年程前から私自身が「主治医はどう考えても私より年上だし、カウンセラーさんについても、いつ何時カウンセラーという仕事を辞めるとも限らない」という考えが頭によぎるようになりました。

 

その時点での私はある程度の平穏な毎日を自分なりに過ごしつつも、時期によって落ち込み気味な周期があったり、何かしらの判断を下す時に、以前ほどでは無いにせよ「この判断は一般的な判断だろうか?もしかして、病的な判断に偏っていないだろうか?」と自分の判断に自信が持てない事が多々あった際に主治医やカウンセラーを頼り、意見を募る。

という行動でした。

勿論、現在もそういう意味ではある程度は自分の中で自分自身の判断で日々を送ってはいますが「これはちょっとわからないな」とか「ちょっとこれは大きすぎて自分では無理かな」という時などに主に医療機関を利用するようになっています。

この利用の仕方は決して間違っているわけではなく、むしろ自分を爆発させない為にはある程度必要な事だと思います。

 

ただ、本当の意味での「完治」とはおそらく、主治医やカウンセラーさんの存在が例えなくなったとしても「何かしら」の問題を自分、もしくは自分の周りにいてくれるプライベートな友人達に相談した後に、最終的な判断として自分でその「何かしら」の問題を解決し、その下した判断に自分で自信を持つ事なんだろうと思います。

 

いわゆる「医療機関への依存からの脱却」ですね。

別に医療機関を利用することに関して言えば全く悪いことではありません。

ただ、それらに頼るあまり、自分の下した感情や判断にいつまでも自信が持てない(無意識に)医療機関で確認しないと安心できない。という状況が良くないと、私は考えるのです。

最悪のケースとして、信頼している主治医とカウンセラーが医療機関の仕事を何らかの形で引退や辞める、といった事態になった時に患者である私が「お疲れ様でした。本当にお世話になりました。ありがとうございます」と心からお祝いし感謝の気持ちで見送れるのか、はたまた「え!そしたら私はこの後の人生誰に何を聞いて確認しながら生きていけばいいの?」とパニックに陥るか。。では雲泥の差が生まれる。というわけです。

 

完治宣言を受けたその後。

ご自身の考え方や、行動。

最終的な医療機関への依存心からの脱皮作業への取り組みを始めてからこそ初めての「完治」という言葉を受け取れるのかもしれません。

知らないどこかで

【無意識の攻撃】

人は誰しも、誰かしらと話す時に無意識的であっても、意図的にであっても、相手との円滑な人間関係の為になるべく相手が傷つかないような言葉を選んで喋る事があると思います。


勿論、気の知れている親友だったり、距離の近い親兄弟であれば、相手が傷つくであろう事であったとしても、間違った行動や思考、間違った方向に進もうとしている場合にはキチンと指摘する事も大切ですし、相手との距離感によっては遠慮なく物事を言える関係というのも存在すると思います。


そういった相手をお互いに思いやった上で、厳しい事を言っても縁が続く仲というのは素晴らしいものだとも、私は感じています。


ただ、世の中には相手の事を考えているわけでも、傷つけたいわけでもなく、無意識的にそれでも確実に傷つく言葉を口に出す人も多々存在するのも事実です。


相手が意図的に傷つく言葉を自分に対してぶつけている時は、例えその言葉がどんなに理不尽な言葉であったとしても、その言葉を口にしている本人も多少なりとも「相手を傷つけている」という意識やその言葉を発する事によって「そんな事を発言してしまった」という少なからず自己嫌悪や、その人自身も傷つく場合もあります。


無意識的に吐き出された言葉の場合に一番悲しいのは、言われた方はとてつもなく傷つき、どれだけ期間が経とうとその言葉をかけられた事実を忘れる事は出来ませんが、無意識的に発した方はなんの気持ちも理解していない為、何度でも同じように相手が確実に傷つく言葉をいつまででも何かしらのキッカケがあれば形を変えて発する。
という事実です。その場合に、言葉を投げかけられた方は、その度に傷つき、そしてその手当を自分でする以外に方法がありません。
相手に対して「言葉で傷ついた」と伝えたとしても、逆に相手は逆上して怒りだしたり「そんな事を言っていない」という言った・言わない問題に発展したり、どちらにしても、言われた方は余計に傷つきさらに深い傷を負う事は確かです。


ハッキリ言ってしまえばその「無意識的に傷つく言葉を発する人」に関して言えばその方の暴言が忠告やアドバイスによって直ることは決してありません。
大変残念ながら、人間「癖」のように無意識的に行なっていることに関して意識して直すというのはかなりの至難の技になります。


かと言って、無意識的に暴言を吐く人から物理的に離れられる場合には良いですが、人間関係的に何をどうしても離れられない縁や切る事のできない関係の人間という場合も勿論存在します。


その場合には、残念ながら、不意打ちに備えて該当する人と喋る際にはいつ傷つけられる言葉を吐かれても平気なように構えて付き合う、もしくは不意打ちにあったときに速やかに手当をできる方法を用意しておくほかありません。


そうやって自分で自分を守る方法をいくつか作り出しておく事が将来的にとても助かる事に繋がっていくのだと、私は考えます。

 

other life

【友達の人生】

自己肯定の低い人は「自分より弱い誰か」の面倒を見る事で自分が評価されている、求められていると思い、様々な意味で自分を犠牲にしてまで相手の事を優先しようとしてしまう場合があります。
かつては、私もそうでしたし、以前投稿した、だめんずが好きなタイプの人達も彼等と一緒にいる上で自分の中の承認欲求を満たしている事について触れたように思います。


病であっても、病でなかったとしても、無意識のうちに自分への自己肯定の評価の低さ故に、そのような行動に走る人多々存在します。


承認欲求が欲しいが故のそう行った行動による成り立つ関係は残念ですがいつか破綻を迎える事が殆どです。


そして、私もかつてはそうでしたが、例え、見返りを求めず、その友人の苦しみや悲しみや、生活そのものについても、力になれる事は出来るだけ力になりたいと、思って行動した時期も勿論ありました。
そういう関係を築いて残念ながら破綻してしまった関係もあれば、お互いをぶつけ合い、大喧嘩もした上で支え合うといういい意味で気を全く使う事なく付き合えるようになった友人もありがたいことに存在します。


そして、私がその事から学んだ事は、どんなにその友人の事を大切に思い、家族のように繋がりの強さを感じたとしても、やはり友人は友人でしかない。
という、事実であり、どんなに働きかけたとしても友人一個人の人生を私が友人という立場で背負って生きていく事は不可能だ。
という事実です。


これが、恋人同士や、婚姻関係が結べる相手だっとすれば「人生を背負う」まではいかなくとも、「人生を共に歩む」事は可能です。


しかし、友人は余程養子縁組でも組まない限り、法律的には他人であり、どこをどうみても友人=他人 なのは明白です。
その 他人 の人生を背負って何もかも面倒を見、共に生きていく。
それはおそらく病的な「共依存」という別の関係性となっている事でしょう。


それは、相手の人生を、背負っているつもりでお互いがお互いに利用し合っている。という、蓋を開けてみればなんとも悲しい関係に他ありません。


そして、健常者であっても、やはり友人の人生は背負って歩いていく事は勿論できません。


友人という立場だからこそわかる事。
恋人という立場だからこそ踏みこめる場所。
家族という立場だからこそ言えてしまう残酷な言葉。
などなど、お互いの、立ち位置や関係性によって言える事、出来る事、お互いの距離感。
ことごとく異なってきます。


何の見返りも求めず、その友人に尽くす事こそが本人の幸せであり、人生そのものという人も実際にはいらっしゃるかもしれません。
本人が心から幸せだと思うのであればそれは全く構わないと、私個人では思う事もありますが、友人は友人。
その大切にしている友人の人生そのものは自分のものにはなり得ません。
当たり前の事ですが、その事を理解せずに、頑張り過ぎながらも、必死に自分の人生だけではなく、友人の人生までも背負おうとボロボロになりながらも頑張る人を何人か見たことがあります。


残念ながら、それは不可能なのです。
そして、その関係がいつしか共倒れになったり、そのご友人が別の依存できる相手を見つけたり。。といった場合にその関係は途方もない大きさで自分の心の中に傷を残しながら破綻してくことでしょう。


友人とは、お互いにお互いが程良く距離感を保ちつつ、時に助け合い、時に厳しい事を言い、時に馬鹿馬鹿しい事で笑い合ったりしながらそれぞれの人生を歩みつつ、人生の途中途中で交わりながら関係を紡いでいく。
そんな有難い関係ではないでしょうか。


無理やり頑張り過ぎてせっかくの縁を断ち切るのではなく、自分にとって必要な縁を手繰り寄せ、大切に長く続けていく。
そんな大切なご縁が読んでくださる方にもあればなと思います。

 

勇気とは

【見捨てる勇気】

メンタル系の病の人に関わらず「自己評価」の低い人に良くみられる行動で「承認欲求を欲するあまり、友人や恋人、家族の為に奔走し、ボロボロになってしまう」行動を繰り返してしまう場合があります。
いわば「共依存」のような関係になって、相手の人に振り回されていたとしても、相手に尽くして居る自分や、相手に必要とされる自分の姿に酔ってしまい、結果的にお互いに、ボロボロになってしまう状況です。


メンタルを病んでいようが、病んでいなかろうが、その行動を行なって居る本人が心からその相手を支えることが幸せでHAPPYであるならば、私は別に構わないと思うのも事実です。
ただ、そういう「自らの自己評価が低いあまりに、自分の承認欲求を満たすために人に尽くす」という行為は、結局のところ見返りがなければ段々と不満だらけになり、尽くされて居る相手からすれば「頼んでもいないのにそっちが勝手にしてくれただけでしょう?」と感謝の気持ちすら持たれていない事も多々あります。


結果的にその関係は、悲しい結果に終わってしまう事が、ほとんどで、お互いがお互いに傷つけあってしまい、心の闇はどんどん深まるばかりなのは確かです。


以前の親との関係性で書いた事もありますが、たとえ親と子であっても自分以外の人間を変える事はほぼ、不可能に近いと私は思っています。
私の力で私でない誰かを私の中にあるビジョンにあるのと同じように操作することは不可能です。
ただ、例えば私の働きかけ、相手への態度によって、相手が相手自身の中で「変わりたい」と思えばそれは、変わる可能性はあると思います。
ただ、それはあくまでもその相手自身の気持ちが「変わりたい」と動いたからこそ変わるわけであって、周りの人間がいくら騒いだり、暴言やアドバイスをしたところで、相手の心へ響かない限り相手の根本は変わりませんし、むしろ「煩わしい事を言う嫌な人」として扱われてしまう可能性もあります。


人間誰しもいつ、どのタイミングで友人や恋人になる人と出会い、どれだけの関係性を深めていけるかはわかりません。
子供から大人へ成長していくに連れて、自分が属するコミュニティの規模も段々と大きくなっていく中で、友人もその分増える人もいれば、友人は昔からの知り合いのみで知り合いだけが増えていく方も居る事でしょう。
どちらが良いわけでも、悪いわけでもなく、古くからの友人であっても、残念ながら、人を利用するだけにしか思えない思考の人が、存在するのも事実です。
また、恋人となると自分自身の中に相手への好意が存在する為、あまり良くない事だと理解していても、相手のワガママに答えてしまう事も多々あると思います。


勿論、それが心から嬉しくて、相手に見返りを求めず、お互いに支え合っていける仲であれば、なんの問題もないと思います。


問題はそうではないと自分が気付いた時。
その時にその相手や周りの人の評価を気にして、その相手を見捨てる勇気が持てない時です。
「見捨てる、諦める、縁を切る」どれもマイナスな言葉ではありますが、他人を利用し、その事柄について「利用」して居ることに気づかず、利用できないと分かるとすぐさま風評被害を周りに吹き込んだり、非難の言葉を浴びせかけたり、突然縁を切られる人間も残念ながらこの世には存在するのです。
そういう人達は私の経験上でしかありませんが、大体にして距離感を保つのも苦手ですし、こちらが距離感を保とうとしても物凄いスピードで近づいて離すものかと食らいついてくるのも事実です。


そんな時は、先程上げた 見捨てる、諦める、縁を切る
の三つの言葉の中に当てはまるどれかで、自分の中で相手に見切りをつけて違う方向を向き、走って逃げてしまうのが一番です。
その方が相手も余計に傷つかずに済みますし、自分自身も守る事になり、完全に距離感を保てたり、逃げきれたり、縁が切れたり、相手に対して諦めがつけたり、してから自分の心理とじっくり向き合えば良いのだと思います。


次に出会えた人とお互いに、ベストの距離感で互いに助け合えるようなそんな関係性を築けるように、残念だった出会いは、その為の自分を見直す機会だったと思って進んでいければ最高にハッピーだと思います。


勿論、何かしらの縁で知り合った人なので、縁が切れたり、嫌われたり見捨てたり諦めたりする事は少なからず自分も傷つきますし、相手も傷つきます。
楽しかった思い出もあれば、相手をとても好きだった時間があったのも事実です。


ただ、その関係性から抜け出せなくなってフト気付いた時に身動きが取れなくなり、心身共に疲れ果ててしまうと、病でなかった人でさえも、病になってしまったり、元々病んでいた人は以前とは比べられないほどに症状が悪化してしまう事がほとんどです。


そういう悲しい事が起こらないよう、マイナスイメージの言葉や行動にも意味がある。
というお話でした。

暗闇の中で

【手当の仕方】

 

昔、メンタルの調子が一番良くない時期の私は本当に真っ暗闇の中を必死にどこが前なのか下なのか、右なのか左なのかもわからないまま、もがいてどうにかしてとにかく前へ進めないものかとがむしゃらに闘っていた時期があります。


その頃には、例えば誰かと接していて不要意に傷つけられる言葉を投げつけられることもしばしばありましたが、私は傷つける言葉という矢がどこから放たれるのか、そして、どこから狙われているのか、それよりも自分が攻撃されているのか、怪我を負っているのかすら気づかない程にただがむしゃらにもがいていた時期が年単位で存在しました。


決してその時期が無駄であったとは思いませんし、その時期のおかげで、自分が傷を負っている事、手当が必要な事。
攻撃して来る言葉を放つ人物が誰なのか。などを把握する事が出来るように思います。


ただ、気づけるまでにかなりの時間を要し、その分手当も遅れ、結果的にメンタルの治療が長引いた。
という結果も事実です。


今現在の私はほぼ穏やかな日々を、過ごして暮らせていますし、勿論親と交流する上で不要意に傷付けられないようになるべく物事を把握して、攻撃対象になりそうな事柄から逃げる力もつきました。


しかし、脳みそが様々な症状を、乗り越えて「大丈夫だ」と判断すると昔辛かった記憶をわざと思い出させないようにしていたブロックの鍵が外されてしまう事もあるので、自分ではそんなに傷ついていなかったと思っていた事柄を不意に思い出して、急に悲しくなったり、苦しくなったり、また、傷つけて来る当人と接しているうちに昔を思い出して気分が悪くなってきてしまう事もあります。


言ってみれば「古傷が痛む」感じになるのです。
もしくは、治っていたはずの傷にまた膿が溜まって切開して膿を出してあげないと、どんどん膿が溜まり続けていつかまた、破裂してしまう場合もあります。


そう言った場合に、自分でその膿を出して手当をする仕方を把握しているかしていないかによって、再度通常運転の生活レベルまで浮上してくるまでの時間が異なってきます。


手当の仕方は勿論人それぞれ異なります。
例えば、何かものスイッチを切ってとにかく眠る。
という人もいれば、誰かに話を聞いてもらう。
という場合もあるでしょうし、とにかくわんわん泣く。
という場合もあるでしょう。


気分転換と若干似ているようにも思えますが、気分転換と違うところは「なによりも自分の感情に素直に行動する」事でしょうか。
普段、穏やかな生活を送っていればいるほど、気分の落ち込みや、自分が意図しない涙が突然流れてくるなど、通常であれば、マイナス要素に見える事柄が起こるとなんとかその状況を打破して元の穏やかな生活に戻るようにと、不安をなくす頓服薬に頼ったり、泣く事が悪いことのよう感じて、泣くのを我慢したり、周りに勘付かれないように明るく振舞ったりしてしまう場合が多いのです。


そうすると、表面上はまるでいつもと変わらない状態に戻ったように自分では思えても、結局はその時に蓋をしてしまった傷は自分の気づかないうちにジクジクと悪化し、知らない間に余計な膿を更に溜め込んでしまう事になりかねないのです。


私も、つい最近までは気分が落ち込んできたり、意識していないのに急に涙が溢れてきてしまったりした時に最初は「これは異常だ、何か対処してこの落ち込みや涙を止めなくては」と考え、主治医に頓服薬を処方してもらえないかを打診した事もありましたが、主治医の答えはノーでした。


それは、脳みそがリミットを解除した為の過去の悲しみであり、やっと自身でその事実を受け止めた瞬間でもあるため、存分に悲しみ、泣き喚き、そして落ち込みましょう。
と言われたのです。
私はとてもびっくりしました。
まるで、自分の病気の状態が悪化して後戻りしているんじゃないかと思うほどに調子が悪くなる時期もありましたし、食事をしている時に何も意識していないのに勝手に涙がボロボロと流れてきた事もあります。


それでも、それは過去の暗闇の中で必死にもがいていた時の涙や悲しみ、落ち込みとは明らかに種類の違うものだ。
と、恐る恐る感情の流れるままに眠り続けてみたり、涙が溢れてきても無理に止めず、そのまま泣いてみたりしたところ、悲しかった事実をきちんと再認識し、受け止め、冷静になれる事に気付きました。


悲しい事柄や昔の記憶がそのように自分なりに手当てをしたからと言って、悲しみが消えるわけでも、無くなるわけでも勿論ありません、悲しいものは悲しいのです。
でも、それで良いのです。
悲しい事柄を悲しくないと自分の感情に蓋をする事で病気になった私たちにとって、例え10年前のことであっても、きちんとその事柄を悲しい事と認識して悲しむ事が出来たことこそが、治療の効果の現れなのです。


そうして、自分の手当てをした後は、浮上時間が昔に比べて遥かに早く、そして自分自身もほんの少し気持ちも楽に、人間的に成長して通常の生活に戻れるのです。


これを読んでくださっている方々が、ご自身なりの手当てを見つけられ、そしてイザ、脳みそのリミットが外れて悲しみが襲ってきた時に、存分に悲しむ事が出来ることを願っております。


多分、その悲しみの闇は昔の真っ暗闇とは全く違うものなのですから。

 

3年目の浮気

【諦めと許し】

メンタルの治療では、度々その向き合う問題に対して「諦め」と「許し」が必要になる場面が多くみられます。


一見「諦め」は悪い事のように捉えられがちでもあり「許し」は諦めよりかはまだ良いけれどやはりあまり良いイメージは無い言葉として普段扱われているように思います。


確かに、両方共良い状態の時に使う言葉ではありませんが、メンタルの治療の際に、この二つの言葉を上手く利用して理解し、治療に取り組む事によって、本人の状態が格段に良くなる場合があります。


私の場合の例としては、病気の原因として「親との関係」が原因を占めるうちの大部分となりましたが、病気になってから、両親を責めた所で彼等が変わる事はなく、表面上なんとなく腫れ物に触るかのようになり、一見変わってくれたように感じる場合もありますが、根本的な所は変わりようがないので、フト気を許した時などに全く同じような傷つく言葉を受けたり、考え方の相違が生じて余計に落ち込んでしまう事もあります。


そういった場合に頑張って無理やり家族に自分を理解してもらおうと努力するのではなく、ある程度の「諦め」を親に対して付けることにしたのでした。
「この人達は何を言っても変わらない」決してプラスの思考ではないにしても、達成できようもない事に神経を注いで余計に病気の闇の中に沈んで行くよりかは、諦めを付けて自分自身の新しい世界を見つけに行く事の方がよっぽど疲れないという事実です。


そして「許し」の部分ですが、これに対しては私の親の場合の話になりますが、親は自身が子供時代にまた、自分の親から同じように何かしらの寂しさや苦しさを与えられ、微かに本人も周りも気づかない程度に病気の闇を抱えたまま大人になり、実際に自分が子供を持った時に、気づかず内に自分の親と同じようなことをしてしまっている。
何故なら「親」としての見本は自分の親しか見てきたことが、ないから人間としては当然の事なのです。


例えば、悲しい事に虐待を受けて育った人はやはり自身が子供を持った時に輪廻して、同じように自分では嫌だと思っていても自身のお子さんに虐待をしてしまう事があるケースが散見される事があります。
逆も然りで、「親がこうだったから、自分は絶対にそんな事はしない」と反面教師になって、逆に素晴らしい親子関係を築けるひとも、勿論いらっしゃいますし、今後もっと増えてくれたら。。と願っています。


そういった意味で最初は「諦め」というマイナスな感情から始まった親への気持ちがいつの間にか「許し」に変わっていく事柄も段々と増えていきます。
勿論、全てを許せたわけでも、ありませんし、未だに許せない部分も親に対しては多々存在しますが、毛嫌いして会話も出来ない状態だったり、年に一度も顔を合わすことすら出来ない。と言ったような、本当の意味での不仲にはならずに済んでいる。
という、状況で今現在に至ります。


誰かを恨んだり、憎んだりする事は確かにとてもエネルギーを使い、そのエネルギーを生み出す事によって、逆に糧として元気に生きていけるかもしれません。
その人から恨みや、憎しみを奪ったらもしかしたら抜け殻のようになって、元気に暮らせなくなるかもしれません。
その時期はおそらく誰にでもあって、その時期に無理矢理そのマイナスな感情を押し殺した方が良いわけではありません。


ただ、段々と自分でその憎しみの感情に対して「自分の希望はこのままでは一生通る事はない」というゴールが薄っすらとでも見えてきた時点で、そのまま、マイナスな感情を持ち続けて日々を不愉快に生きていくのか、それともその事柄に対して「諦め」を見出して別の事に視野を向けて生きていくのかは本人の自由なんだと思います。


私の場合は「憎しみ続ける、恨み続けるエネルギーが無駄だし、疲れる」と気づいてからも、暫くは相手にアピールして分かってもらおうと必死でしたが、闇は深まるばかりだったので、ある日スコーンと「あ、やめよう」と気持ちが切り替わって良い意味で「諦め」がついたように思えます。
諦めが付いた後も、勿論親は変わっていないので、フトした時に傷つけられる事も今でもしばしばありますが、それでも自分の中で「諦め」を付けた事によって、憎悪の感情は湧き上がらなくなり、悔しいけど、一瞬沈むものの、仕方のない事だも諦め、許すことで自分の通常の日常を取り戻すペースが早くなったように感じます。


諦めと許す という言葉はマイナスなようでいて、実は味方につけると、とても過ごしやすくなるプラスの言葉なのだと、病気を通じて実感している日々です。


現在、病気を抱えている方や、闘っている方が一日も早く「諦めと許し」の気持ちを受け入れて、今いる闇の中よりも少しでも明るい場所へ浮上できることを心から願っております。

石の上にも三年

【趣味的なもの】

私は、発病後五年程経った頃に謎に
編み物を急にしたくなり、それまで全く経験したことのない「かぎ針編み」を独学で勉強して、編みぐるみや、ちょっとした小物を編むようになり、それから10年程経った今も、一年のうちに数回は何かしらを編んで人にプレゼントしたり、自分で使えるものを作って、実際に使っていたりします。


「継続は力なり」


で、一時期は雑貨屋さんに置いてもらえる程になりました。


気分転換の方法は世の中に沢山ありますが、なるべくお金のかからないものや、何かしら達成感のあるものなど、興味は人さまざまだと思います。何事も飽きずに程々に自分が楽しめる趣味を続ける。というのは、とても精神衛生上いい効果を表したように思います。


私の場合にはたまたま、編み物でしたが、人によってはゲームだったり、料理だったり、運動だったりするのかもしれません。


どんな趣味でも継続して行うことで、趣味の中身のレベルアップや、自身の心の充実などに、明らかに差が出てきます。


特に闘病中は、金銭的に苦しくなる場合が多いので、100円均一などで購入できる、何かしらで行える趣味を新たに持つのも、普段の生活に彩りを持つことが出来て、少し生活にメリハリが出てくるかもしれません。


今日日、100円均一では、様々なものが揃えられているので、何かしら少しでも興味の持ったものを始めて、徐々に興味の幅を広げていったり、何かを作ったりする事による達成感で、自分に対する気持ちに少し余裕が持てるようになるかもしれません。


私も最初にかぎ針編みを始めた時は誰にも教わることが出来なかったので、毛糸を引っ張りすぎて途中で切れてしまったり、こんがらがって解けなくなったり。。と形になるまでにだいぶ時間がかかりましたが、初めて編みぐるみを編み上げた時の嬉しさや、充実感は本当に素晴らしい物でした。


それまで、自分を否定し、彩りも何もない生活から、一変に「あれも作ってみたい、これも挑戦してみたい」という彩りが生活に戻ってきたのを今でも覚えています。


趣味嗜好は人それぞれ違います。
是非、これを読んでくださっている方も何か、負担のかかりにくい生活の色を取り戻してくれる「何かしら」が見つかる事を願っています。


選ぶものによっては向き不向きは勿論ありますが、最初から上手くいくことはまずありません。
何よりも、上手くできる事を目指すのではなく、気分転換として、失敗を繰り返したとしても、苦痛でない限りはマイペースに継続してみると、案外自分の新たな一面を知れるかもしれません。