あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

石の上にも三年

【趣味的なもの】

私は、発病後五年程経った頃に謎に
編み物を急にしたくなり、それまで全く経験したことのない「かぎ針編み」を独学で勉強して、編みぐるみや、ちょっとした小物を編むようになり、それから10年程経った今も、一年のうちに数回は何かしらを編んで人にプレゼントしたり、自分で使えるものを作って、実際に使っていたりします。


「継続は力なり」


で、一時期は雑貨屋さんに置いてもらえる程になりました。


気分転換の方法は世の中に沢山ありますが、なるべくお金のかからないものや、何かしら達成感のあるものなど、興味は人さまざまだと思います。何事も飽きずに程々に自分が楽しめる趣味を続ける。というのは、とても精神衛生上いい効果を表したように思います。


私の場合にはたまたま、編み物でしたが、人によってはゲームだったり、料理だったり、運動だったりするのかもしれません。


どんな趣味でも継続して行うことで、趣味の中身のレベルアップや、自身の心の充実などに、明らかに差が出てきます。


特に闘病中は、金銭的に苦しくなる場合が多いので、100円均一などで購入できる、何かしらで行える趣味を新たに持つのも、普段の生活に彩りを持つことが出来て、少し生活にメリハリが出てくるかもしれません。


今日日、100円均一では、様々なものが揃えられているので、何かしら少しでも興味の持ったものを始めて、徐々に興味の幅を広げていったり、何かを作ったりする事による達成感で、自分に対する気持ちに少し余裕が持てるようになるかもしれません。


私も最初にかぎ針編みを始めた時は誰にも教わることが出来なかったので、毛糸を引っ張りすぎて途中で切れてしまったり、こんがらがって解けなくなったり。。と形になるまでにだいぶ時間がかかりましたが、初めて編みぐるみを編み上げた時の嬉しさや、充実感は本当に素晴らしい物でした。


それまで、自分を否定し、彩りも何もない生活から、一変に「あれも作ってみたい、これも挑戦してみたい」という彩りが生活に戻ってきたのを今でも覚えています。


趣味嗜好は人それぞれ違います。
是非、これを読んでくださっている方も何か、負担のかかりにくい生活の色を取り戻してくれる「何かしら」が見つかる事を願っています。


選ぶものによっては向き不向きは勿論ありますが、最初から上手くいくことはまずありません。
何よりも、上手くできる事を目指すのではなく、気分転換として、失敗を繰り返したとしても、苦痛でない限りはマイペースに継続してみると、案外自分の新たな一面を知れるかもしれません。

造ること

【私が感じたメンタル治療】

メンタルの治療は、私の経験的な感想としては、それまで自分の人生で培っていた判断力や、過ごしてきた中で育ってきたプライド等を一旦全て壊して全くの更地にしてから、また家を建てる為に自分でレンガを一つ一つ積み上げて少しずつ、少しずつ自らの家を造っていく作業であると、私は感じました。
治療が終わったら家造りが終わるわけではなく、治療を終えてやっと家の基礎が出来たくらいで、その後の人生を過ごしていく中で一つ一つ積み上げてその人生が終わりを迎えるまで、ずっと進化しながら造っていくものなのであろう。
ということです。
多分「治療が終わったら、全部終わり!」でその後本人の成長していく意志が無ければ、家は永遠に建つ気配もなく、結局またいつか何かしらの壁にぶつかった時に自分のダメージに気付かず、いつのまにかまた闇の中に迷い込んでしまい、再度イチから更地に戻す作業を繰り返していくだけなんだと思います。


今現在の私は、治療のお蔭もあり病気以前では出来ない思考や自分の意思を端的にではなく、分析した上で何らかの判断を下す事も出来るようになりました。


ただ、一つ治療の影響として「自分の判断が果たして客観的に見てもおかしくないものなのか」については、どちらかと言えば自信を持てない事柄が増えた事もまた、事実です。


病気になる以前の私はどちらかと言えば世の中には「善と悪」「白と黒」しかなく、自分がおかしいと感じた事は誰しもがおかしいと感じるに違いないと、決めつけてしまう事が多くありました。
メンタルの治療をしてからは「世の中にはグレーゾーンもある」事や「必ずしも、物事は自分と同じ様に他人にも見えるわけではない」事「物事を多角的に見てから判断する事」等が理解できて、昔程物事を決めつけたり、自分の考えだけを正義として相手に押し付ける事は少なくなってきた様に思います。


ただ、メンタルの病気になる前の自分の考え方や判断。
また、病気中の一番酷い症状だった頃の破茶滅茶な自分を知っているからこそ、たまに「この、自分の考え方は一般的な事柄からかけ離れているのでは無いだろうか?」と分からなくなってしまう事があるのも事実です。
それはおそらく、病気中に壊れたメンタルが酷い壊れ方であればあるほど、造り治した自分との落差が激しければ激しい程、フトした時に「あれ?これはもしかして一般的な判断からはみ出してる?」と自分の考え方に自信を持てない時があります。


今現在の私はその時々で自分に余裕があれば、直ぐに判断を下さずに、自分なりにじっくり考える+男性・女性共に信頼できる人に「客観的な意見を聞かせてください」とお願いして事柄を何かしらの手段で伝え、相手の意見を聞いた上で、再度自分の中で判断を下す。


という作業をすることにしています。
少し、自分に自信がなさ過ぎるのかな??とも感じますが、急いで決めなければいけない事で無い限りは、自分で納得した上で判断した方が後々悔いが残らないかなぁ。
と思うのですが、人によっては「なぜ、ストレートな感情のままに動かないんだ」とか「何事も分析してからでないと決められないのか」とか「感情が見えにくい」という風に受け取られることもしばしばあります。


私の今後の課題としては、人間としていかに成長しつつ、誰かに聞かなくても自分の判断に少しずつでも自信が持てるようにする事なのかな。
とも思えるようになって来ました。


本人が諦めない限りは、どんな形であっても、人間は成長出来るのかもしれません。

しとしと雨

【気圧による体調不良】

そろそろ日本全国梅雨に突入する時期でしょうか?


ここ最近では夏日の日もあれば、突然気温が下がったりして涼しい日もあったりしますが、今後梅雨に入って日照時間が短くなったり、曇りの日ばかりで、気圧が不安定になると、体調を崩す人が多くなります。


メンタル系の方は特にその傾向が強く見られる場合がありますが、私自身はメンタル系の調子がMAXに酷い時にはそのような気圧や、天気に左右されることはありませんでしたが、年齢的にホルモンバランスが乱れがちな年齢に差し掛かってから突然気圧による偏頭痛に悩まされたり、天候が優れない日は朝起き上がれなかったりする日が増えました。


ホルモンバランスによる、体調不良の場合にはメンタル的にそこまで落ち込むことはなくても、やはり、自分の身体が思うように動かない。というのはそれなりにストレスがかかります。
また、メンタル的にも影響を受ける方の場合には原因が何が何だか分からないけれども必要以上に落ち込む傾向にあります。


それぞれの置かれた状況にもよりますが、もし、休める状況にある人なのであれば、思い切って休んでしまうのが楽です。
但し、休んでいる自分を責めてしまう人の場合は落ち込みを更に深めてしまう場合があるので注意が必要です。


もし、お仕事などでどうしても休める状況にない方の場合には、漢方薬や、自律神経系のお薬で症状を軽減できる場合もあるので、お医者さんに相談することをお勧めします。


どちらにしても、全く影響を受けずに元気いっぱいにお薬を服用して戻る。
というのは、どちらかといえばゼロに等しい可能性なので、どこかで「これは天候が影響しているから仕方ない」とある程度諦めをつけることが一番本人の心が楽になる方法だとは思います。


誰しも、「体調が悪い」事は嬉しくありませんし「体調不良による休養」はあまり本人にとっても喜ばしいことではありません。
それ故に周りからは理解されづらく、余計に自分で自分を追い込んでしまう事が多く見られますが、自分を追い込んでしまうと、その後例え梅雨が終わった時期が訪れても無理をしたせいで以前よりもずっと調子が悪くなり、体調が戻りづらくなる場合が多々あります。


ある程度は、自分の不調を認めて少し甘やかすことも必要なのかもしれません。

グレイテスト・ヒューマン

LGBTについて】

最近ではセクシャルマイノリティーの言葉としてLGBTという言葉が浸透してきましたが、まだその言葉が殆ど日本に浸透していない頃に同性を愛する人とお友達だったり、仕事場の同僚として、男女共に過ごした事があります。


私自身は特に同性が同性を好きになることに対してはなんとも思わず、どちらかといえば「人間の一個人として恋愛感情が芽生える」という事なのだろう。
と勝手に思っていました。


その人達が口を揃えて言うのは「幼少期から、自分は異常なんだと思った」という言葉でした。


世間的には「異性を好きになるのが当たり前」という事をそれこそ幼稚園に入る前位から周りから刷り込まれて育つ中で、自分が特に気にしていない時期から彼等は自然と同性に目が行き、心惹かれていく事に自分自身で気づいた時に、まず最初に「自分はおかしい、何かの病気なんじゃないだろうか?」とショックに陥り、その後「この事実が家族に知れたらさぞかし大変な事になるであろう」と考え、どんどん自分の中にしまい込み、悩み続けてしまう。
という事実でした。


例え、親にカミングアウトしたとしても、「親を悲しませてしまったのではないか」と更に悩みのどツボにハマる人も居ます。


なので、彼等は彼等なりの地下ネットワーク的な物を張り巡らして、まだインターネットが普及するだいぶ前から、繋がり、独自のグループ(?)的な物を作って活動しているのです。


なので、同性を好きではあるけれど、「異常だ」と自分の中で判断し、気が乗らないまま結婚した後にやっぱり違和感を感じて、そのまま婚姻生活は継続しながらも、LGBTのイベントなどに参加する人も勿論存在します。


ここ最近では表面に出て公表する人も増えてきましたし、タレント活動をカミングアウトをした上で続ける方も増えてきたので、「偏見」という物が存在はしているものの「そういう人達が居るんだ」という認識は広がって来たように思われます。


今まで「いかに、世間に隠し通すか」をテーマに地下ネットワークだけで生きてきた人達が、急に「ハイ!宣言してください!」と言われても、本人達も戸惑ってしまうと思いますし、知らないまま長く当事者と接して居た人達も戸惑う事もあるとは思います。


ただ、性格が何もかも全て一致する人がこの世に存在しないように、人間は千差万別、多種多様な生き物です。
カミングアウトしたからといって、その人自身はなんら変わりのない事です。
(勿論、どちらかが、どちらかに恋愛感情を持って居た場合には変わるかも知れません)
もし、友人であるならば、相手が恋愛感情を持って居なければそれは「ただの友達」以外の何者でもなくて「今までの関係となんら変わりのない関係」なのです。
勿論、恋愛相談などの内容的に相手が自分と同性って事はあるかとは思いますが、多分、違いはそこだけです。


お友達にカミングアウトするのはおそらく本人的には物凄く勇気がいることと思います。
それはその人との関係が大切であればあるほど、本人は悩み、苦しみ、自分の事を呪ったりもします。
それでも、嘘を吐くのは嫌だから ともし、カミングアウトしてくれたら、戸惑ったとしても、友情関係を断ち切らないであげてください。
もし、相手が自分に「恋愛感情」を抱いて居た場合は、「自分は興味が全くない」ことをキッパリと断った上でお友達関係を続けていくといいかと思います。


私は「友人」として彼等と接した事がありますが、彼等はとてつもない闇を幼少期から抱え、中にはメンタルを病む人も居りますし、悲しい事に自ら命を絶ってしまう人もいます。


「好きになる人が周りと違う」これだけで、そんなに幼い頃から小さな胸を痛め、傷つき、大人になるに連れてどんどん悩みの沼にハマっていってしまう。
人間として、人柄としてとても素敵な人だとしても、本人は決してその自分の素晴らしい部分を否定して生きてしまう。


もし、それが自分の友人や家族の中で悩んでいたとしたら、悲しくはないでしょうか?


現在、LGBTについてだいぶ表面化してきた世間になってはいますが、やはり今までそういう事に触れたことのない人達からは「分かりにくい」「どう接したら分からない」という意見も多く聞かれます。
なので、これからカミングアウトする方や、表面的に活動する人達は、分かりやすく、勿論主張するのは大切ですが「押し付け」にならないように、ただ、「存在して居るんだ」という事をまず、周りの人たちに認識させてあげてください。


どんな人達も住みやすく。
そんな、世界になると良いですね。

 

ここに居る才能

【映画好きスキ】

実際に映画館に観に行く機会は少ない方ですが、幼き頃からTVで放映される映画や、レンタル屋さんなどの出現により映画はずっと好きなものの1つです。


好きなジャンル的にはアクションやラブコメディー、サスペンスなどが割と好きです。


後は淡々と過ぎ行く映画もかなり好きな部類に入ります。


邦画・洋画に関わらず、興味が湧いたものに関しては見る感じなので、色々な作品を目にする機会がありました。


淡々と過ぎ行く映画は、一見何も起こらず、つまらなそうに見えがちですが、淡々としている分、出演者のほんの少しの心の動きや、繊細な瞳の表情なんかも読み取ることが出来たり、静かな映画の印象でも、何かしら実は強く訴えかけるものがある場合も多々あります。


また、BGMとして流しておくにも、静かな映画だと自然と馴染む物で、邪魔にならなかったりもします。


また、過去にまた作品であっても、何度も見返すうちに、出てくる何でもない台詞に自分が救われたりする一面もあったりするので、気分転換という意味でも、自宅で映画を見るのは割とおススメです。


映画館に出向くと、勿論大画面の迫力などは自宅で観るのと桁違いに素晴らしいですが、メンタル的に弱っている時は不思議と集中力が続かず、昔見れていた映画や本や物によっては漫画でさえも読めない。。という時期もあります。


そんな時には、ただ、笑えるだけの好きなお笑い番組や、落ち着いた番組構成の軽めの番組なんかを観ると集中力が途中で途切れる前に見ることをやめたり、番組自体が短めでちゃんと見終わることが出来る場合もあります。


自宅で映画を見るメリットは、途中で止められること。
お手洗いに行ったり、何かを食べたり飲んだり、細切れにして自分のペースで観れることでしょうか。
何より、映画館でジッと集中する気力のない時に周りへの迷惑(席を立つなど)を考えると余計に具合が悪くなったりするものなので、そういう時には無理をせず、自分の好きなものを好きなタイミングで観るのが一番ストレスが溜まらないのではないかと思います。


そして、そんな風になってから少し調子が良くなった時に観れる映画館での映画はとても素晴らしいひと時になりますし、家で改めて見る見慣れた映画の中から、今まで気にした事もない台詞の一部分が、その後かけがえのない程大切な一文になったりする事もあります。


泣いたり、笑ったり、、当たり前にできる自己表現がメンタルを本格的に病むと能面のように表情さえ作れなくなる事もあるので、映画や漫画、ドラマや音楽、何の娯楽であっても、そういう状況から脱せるのはとても気持ちの良いものです。


私の大好きな映画の中でだいぶ調子が良くなってから改めて見直した映画の中の台詞がそれまでは、何ともなかったただの台詞なのに、大切な一文になった台詞があります。


「ここに居る才能」


です。この台詞を聞いた時に「ここに居る才能」を私の中で『すなわち、ここに居ても良い才能』なのかな?と思ったらなんだかとてつもなく嬉しくなった覚えがあります。


そんな風に何年も見慣れた映画であっても、いろんな発見のできる気分転換に「映画」というジャンルも入れておいてあげてください。

アルコール

【服薬とお酒について】

お酒、皆さんお好きでしょうか?
好きな人も勿論いらっしゃるだろうし、身体が受け付けないという方もいらっしゃれば、たまーに飲むくらい。。という方もいらして、千差万別だと思います。


殆どのメンタルの薬については、その説明文「アルコールの摂取をすると効能が過剰に効きすぎる場合があるので医師に確認するように」と注意書きがあったり「アルコールの摂取はしないように」と書いてあるものが殆どです。


確かに、服薬中の人がお酒を飲んだ場合に余計に薬が効きやすくなる事は確かです。
メンタルの薬は脳に直接働きかける物が多いので、お酒で麻痺した感覚になり、余計に効能が強調されるのかもしれませんが、服薬なさっているお薬によっては内臓や脳が飲酒によるダメージを受ける事があるのも事実です。


そういう私自身は服薬期間中に割と気にせずお酒は飲んでいる方でした。


私自身、処方されていた薬がどちらかといえば不眠症中心だったのもあって精神薬的な処方は軽めのものだったこともかり「不眠で眠れないけど、飲酒とお薬だと眠りやすい」という感覚で「眠れるから」と飲んでいた時期もあります。
そういう場合には確かに眠ることはできたとしても、深く、質の良い睡眠ではないのと、寝ている時間自体はいつもよりも伸びるので「かなり寝たはずなのになんだか怠くて動けない」という状態が多かったように思います。


主治医からは、お酒については「飲まない方が好ましくはあるが、特に絶対に飲んではいけないというレベルではない」という判断もあったので、主治医に対しても飲酒している事を隠すこともなく、飲んで過ごしていた時期も勿論あります。


主治医の判断の1つには、たまたま主治医が個人的にお酒が好きな性格の人間だった。
という事と、メンタルを病む人に多い「気分転換が下手」なため「気分転換になるキッカケになる飲酒を禁止すると追い込まれがち」というのもあったかと今では思えます。
後はおそらく、私に処方していた薬が軽めのものだった事も関係していると思われますし、結局のところ医師が禁止したとしても、飲んでしまう人は飲む。
というのもあります。


私が服薬期間を終えて飲酒に対して思うのは「必要がなければ飲まない方が身体的ダメージが少なく済む」という感想です。


「服薬」しているだけで、どんな薬であれ元々肝臓と腎臓にかなりの負担が服薬していない人と比べてかなりかかっている状態だ。
というのを、私自身が服薬中に気づいていなかったのが、余計に飲酒しても問題ない。。と感じたのかもしれません。


今現在の私は飲酒を全くしていませんが、それは何も内臓的な事や健康的なことに関して重視して。。というよりは「お酒の必要性を感じなくなったから」というのが一番の理由に感じます。
私は割とお酒が飲めるタイプなので、お酒の味自体はとても好んでいるのもあり、おそらく楽しもうと思えば楽しめるタイプでもありますが、性格的に物凄く酔っ払ってご機嫌になったり、記憶をなくすほどに飲んだりするタイプではなく、自分の中で無意識に自分の限界量を決めて調節しながら長い時間お酒を飲み楽しむタイプな事もあるかもしれません。
飲み方としてはスマートな方だとは思いますし、お酒の魅力を最大限に楽しめる飲み方かもしれませんが、お酒を飲んだとしてもそれが「気晴らし」には特に繋がらない。ということです。
あくまでも「味を楽しむ」という部分ではそれこそお料理の味を楽しむのとなんら変わりがないのだと思います。
おそらく、これがすぐに酔っ払って陽気になるタイプや、鬱憤晴らしが出来るタイプだったり、記憶をなくすほどに飲めるタイプならば「お酒を飲むとなんかスッキリする」という快感が脳に植えつけられるので、飲酒大好き!になるでしょうし、気分転換の1つの手段としてはとても有効だとは思います。


ただ、飲んだとしても、私の場合には飲んでいる時間の間だけ、現実逃避できるわけでもなく、気分転換の1つの手段としては有効ではない。
という判断からお酒を飲まなくなりました。


もしかしたら、段階的に「お酒」が必要なくなった精神状態になったのかも?とも考えられますが、これは、私一個人のあくまでも考えなので、確実とはいえませんが、そんな気も本人にはあります。


そして、何より10数年服薬をしていた内臓は物凄く悪い数値では無いけど、確実に健康な人に比べると飲酒をしていなくてもちょっと数値が悪くなる。
というのも「お酒を飲まなくてもいいや」と思わせてくれた1つのキッカケなのかもしれません。
服薬期間中の真っ只中や、飲酒しないと気が済まないような時期は本人もまだ病気と向き合っていくのが辛い時期だったりするので、あまり冷静に「内臓への影響」について考えられる人が少ないように思います。
勿論、私自身もそうだったので、そのように感じるのですが、やはり人間何かと必死に戦っているときは正に「沈黙の臓器」に対してはなんとも気をつけることもなければ、気にすることも出来ないのです。


それでなくとも、メンタルを病んだ人は食生活や生活時間帯がはちゃめちゃになりがちなので、知らず知らずの内に自分の気づかない臓器を痛めつけている場合が多いので、そういった意味でも肝臓と腎臓には負担がかかりやすい生活になりやすいのです。


あまり、気にしすぎてストレスを溜め込むのは良くありませんが、何かしらの薬を服薬している間は少し、自分自身の臓器の事も思いやってあげられると、服薬期間が終わった後の残りの人生を他の病気を気にしたりする事なく楽しめる時間が長くなることは確かなので、少し、気にしてみると良いかもしれません。


また、結果的にその事が「自分の内面にも目を向ける」「今まで蔑ろにしてきた自分を大切に扱う」事で、自分の病気と身体に向き合い、案外メンタル的な病気の治り方への解決法が見つかりやすくなるのではないかも、私には感じられました。

 

何かを教える立場とは

【指導者として】

人に何かを教えるっていうのは、本当に難しく、教え方1つで相手がその事柄に興味をその後も持って取り組んでくれる場合もあれば、その後もうその事柄自体に苦手意識が芽生えて、避けて通ってしまう人になる事もあります。


それが、例え小学生の宿題であったり、会社の新入社員に対する仕事の指導であっても、教える側の技量によって、全く同じ事を教えたとしても、結果は天と地ほどの差が開くわけです。


勿論教わる側の人格的に何かしらの問題がある場合もありますが、私の個人的な感想としてはやっぱり教える側の興味の持たせ方次第でいくらでも変わる。
と思うのです。


私は勿論教わる側の経験もありますし、社会人として新人さんの教育担当として仕事をしていた期間もあります。


人に物事を教える作業って本当に疲れるし、骨が折れる仕事です。
ただ、その仕事を経験することによって身についたものは、仕事を教わる側よりも指導者側の方が人間として今までの何倍も成長させてもらえる機会を貰えた。
という気付きでした。


自分という人間は一人しか居ませんが、物事を教える相手は千差万別、個性も色とりどりなので、どの人に対しても全く同じ教え方では、その内通じなくなってくるわけです。
そこで、教える側が鍛えられ、与えてもらえるのが「人としての伸び代」なんだろうな、と感じました。


そうやって培った「人としての伸び代」は教えた事柄だけではなく、その後の人生において様々な場面で役に立つのです。


形式的に言えば「何かしらを教えた」だけの事であっても、教えた側にとっては本当に他には代え難い経験をさせてくれているというわけです。


勿論、世の中には色んな指導者が居ます。


「物を教える事」がルーティン化してしまって、教える側に全く興味を持たず、一方通行の指導者 も存在すれば、「指導者として扱われる事」に対して勘違いを起こし、まるで自分が自分の実力以上の権力を握ったと思い、間違った行動を起こしてしまう指導者。
「教えた事柄に対して結果の出ない事」に対し、自分の教え方に対して省みる事無く、相手側に不当な圧力をかけてしまう指導者。


など、指導者側が例え自分の子供に対する宿題を教える1人の親であっても、それこそ大企業の社員を抱える社会人であっても、若き頃に何かしらの功績をその道で残し、その道の神様と崇められるような人であったとしても「一指導者」としては、なんら変わりないわけなのです。


あらゆる場面、あらゆる立場の指導者側に立つ人々が実は教えている事によって、自分が成長させてもらえている。
この事を忘れずに、それぞれが守るべきものや、相手に対する考え方や、教え方の問題について見失う事なく、指導していける世の中になるといいな。。と感じた今日この頃です。