この間、ある人と理解し合う為に文字ではあるが長々と話をさせてもらっているうちに、自分の生と死に関して分かった事があって、その事実になんだか唖然として、そして同時に悔しくもなった。
別にマイナスでもなんでも無くて、多分それは誰にでもある「これだけは譲れない」みたいなもので、その内容は人それぞれだ。
で、私のその「譲れない物」に気づいたと同時に別の事にも気づいた。
多分、今生でこれ以外の事にはもう興味がなく、なんの未練もない事まで自分に分かってしまって、その結果として私は一生懸命自問自答し、自分なりに沢山の壁を乗り越え、ある程度のトラウマも乗り越えて来た筈なのに、結局はそこに辿り着いて、そしてもう何度も「死」の近くに居たので、今生にその事以外になんの興味も未練もなく、おそらくちゃんと、生きているのは
お猫様のおかげ。
彼らをちゃんと見送るまでは生きねばという自分でわざと、生きていく為に「お猫様と共に生きる」という課題をだして誤魔化しているだけなのだ。
お猫様の事は心の底から愛している。
私にとって大切な大切な唯一の家族だ。
事実、今いる上のお猫様の前に居た先代の子が亡くなったら単身者の私がお猫様を保護団体等から譲ってもらえる事は皆無なので、その子が亡くなったら一緒に死んでしまおうと、遺書まで書いてたんだわって。。(何故ならその時私は癌の誤報を受けていた。後に癌ではないと判明)
まあ、その後先代の子が亡くなる前の年にたまたま、友人宅で今のお猫様が生まれて飼いきれないと、里親の依頼があって遥々大分から運んでお迎えしたお猫様が居てくれたから、先代のお猫様が亡くなっても私は死ななかった。
現在は縁あってもう一人春から女の子のお猫様をお迎えした。
私の今生での唯一の願いは
「人間の自分の家族が欲しい」だ
もう、子供は産めないけれど身体的にも年齢的にも。(本当は産んでみたかったし、育ててもみたかった)
それでも、人間のパートナーとして誰かの配偶者になりたいのだ。
勿論誰でもいいわけではない。
愛している、愛し合っている人と最後は家族になって死にたいのだ。
それだけ
それだけが、心残りで生きてるだけで
それ以外にしたい事も、未練も何もなく
でも、きっとそれは、過去生まれて来てから
親との関係性で「家族」を感じられないまま「家族」の中で「疎外感」を感じながら育ち、永遠に「守られている」感じも「絶対的な味方」も物心ついた時からゼロだった私の多分一番最初の心の奥底で芽生えた「願い」のはずで、25歳で爆発してから自分の人柄を全てゼロにして、一つ一つレンガを積み上げる様にして創り上げてきた今の自分が私はやっと好きになれたけど、結果として
その「自分の家族を作る」ことだけは
お猫様とはファミリーとして暮らせても
「対人間」は相手のいる事なので、一人では勿論できない。
そして、その多分生まれて最初に感じた孤独感に対して、40を過ぎた今でもそこだけが乗り越えられてないのか。。と思うとなんだか
今まで死に物狂いでぶっ壊れた自分をいま一度作り直し、なんとか色んな感情の波を自己調整し、色んな病気で手術になり、何度も何度も医師に付き添い人が居ないからと「死んでも文句言いませんぜ」って誓約書を書かされ、いつでも死ねます!死ぬ準備だけは万端です!な状態で生きてきた私からすると、多分生きてる意味はそこだけに未練があって生きてるんだろなって。。気づいた時に「なんだ、結局はそこに戻るのね」ってなって正直悲しくて悔しかった。
人間として、例えばここに旅行に行ってみたいな〜とか
遠方に住むあの人に会いに行ってみたいなー
的な思いは勿論ある。
でも、多分私の生きていく原動力はきっと
まだ、見つけることの出来ていない「私の家族」になってくれる、自分のつがいの片割れを
未だ探しているからであって、その願いがもう無理だなーって分かった時にお猫様を見送る以外に今生に何の未練もない事が分かってしまって、自分の原点は結局変わらなくて、それが
「いいことだ」と言ってくれる人も居るけど
「配偶者」を求める時期としてはもうとっくのとうに適齢期など過ぎ去り、既に私は初老である。
勿論、男性が求める様な子が産めるわけでもない。
「配偶者」として隣に居れたとしても
「配偶者」らしき事は多分何も相手にしてあげられる事はない。。
それでも、私を愛してくれる人はいるのか?
も、分からないし、私がそもそも愛せる人が存在するのか?もわからない。
そして、結局トラウマって大人になっても、乗り越えたつもりで大元のトラウマって一人では乗り越えられないんだなってとても、とても実感した。
勿論、今までの治療薬も、カウンセラーさんや主治医、そして様々な時に繋がれた友達のお陰で乗り越えてこれた。
でも最後に手に入れたい「自分の家族」は
現時点でも、もちろん手に入る気配はピクリともなく、結局、また私は数年前の「生ける屍」でしかないのか?と思ってしまう時もある。
とりあえずは、ちゃんと寝て、食べて、運動して、日々お猫様を愛でて、日常の細々した事に楽しみ・喜びを見つけて、感謝して生きる。
そうやって、自分が「生ける屍」である事に対して、現実逃避する。
その日常の中で「自分の家族を作る」以外に何か目標になる物や、目指したいものがいつか生きているうちに見つかるといいなぁ。
と思いつつ、最後は、最後くらいはどこにも気を使わずに、愛してる人と共に眠りたい。
その願いがいつか叶うのか?掴めるのか?も分からないし、結局そこは乗り越えられてなかったの?っていう自分にとにかく悔しくて悔しくて、馬鹿らしいけど部屋で一人で泣いてしまうくらいに悔しい。
でも、「貴女は生き死にちゃんと覚悟がある人だったね」って言ってくれる大切なお友達にも恵まれているから、結果中途半端が大嫌いな私からしたら、今の私はとてつもなく中途半端で、全くもって自分の思い描いていた大人にもなっておらず「なんなんだよ、ちくしょう。。」と思うくらいは悲しい事も沢山あるけど、それでもきっと生きているのには何かしらの意味があると思いたい。
し、いつかこの甘えん坊で寂しん坊で、どーしようもない自分を許せる日が来るのだろうか?
そして、そんな私を許してくれる人はこの世に存在するのだろうか?
と、思いつつも
それでも、25歳で大崩壊してから後、なんとか立て直してきた自分を、自分で褒めつつ。
きっと、緩々と、マイペースに亀ペースでも
進んでいけてたらいいな。。と
思う。
だから、今は気づいてしまった事実に嗚咽が出るくらい泣いても良いですか?
とにかく、悔しくて、あまりにも悔しくて
なんとか乗り越えてきたつもりなのに
悔しくて、いつか、山頂を夢見る登山家の様に、私はある程度中腹まで来ていたつもりだったけど、もしかしたらまた全然序盤だったのかもしれないと思ったら、余りにも悲しすぎた。
そして、悔しすぎた。
ここまでくるのに、約20年かかったのに?
まだ、裾野なの?って本当に本当に悔しかった。父親が亡くなった年齢までは後30年
30年「も」ある。
でも、大切な愛する人と過ごせる時間が
あと30年「しか」ないとも言える。
もちろん、私が父親と同じ年齢に亡くなるのか?と言われたらそれは分からない。
もうちょっと長生きするかもしれないし、もしかしたら何らかの事故で明日死ぬ事だって普通に起こりうる世界で、私は父親の様に色んな事をやり遂げて、父親自体は満足してなかった様だけど、彼らしいキッパリとした最後の様に、スッキリと旅立てるのだろうか?
永遠に死ぬまで「生ける屍」で居るなんて、まっぴらごめんだ。
そんなのは、絶対に嫌だ。絶対に、絶対に
いつか今の拘り以外にも「生きる楽しみ」を見つけて残りの人生を楽しみまくって私は死にたい。
とりあえず、今夜は泣かせてくれよ。
悔しい自分にさ。