あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

孤独とスポットライト

以前、どこかのSNSで「なんで、自殺する場所」として「電車に飛び込む」という選択肢を選ぶんだ!!

迷惑極まりないじゃないか!

その答えにたどり着いた人の心理が理解できない!!

と、怒り心頭していらっしゃる友人の呟きを目にした事があります。

 

お怒りはごもっともで、勿論私も会社通勤中に人身事故に合うのはしょっちゅうでした。

乗っている電車そのものに飛び込まれてしまうと、鉄道会社が警察を呼び、現場検証をし、、、とかなりの時間がかかるので、乗客はその間電車に乗りっぱなし状態か、もしくは現場検証等があまりにも長引く場合に、運良く駅構内に電車が差し掛かっている位置などであれば、徒歩で電車から降りて別のルートで目的地に向かう方法が取られる場合もあり、亡くなられた方からすれば「ぶつかった時点でお終い」ですが、電車を待っている人や、その電車に乗っている人、そして鉄道機関で働いていらっしゃる方々にとっては迷惑極まりない事柄なのは当然のことです。

 

では、何故彼等は「電車に飛び込む」という選択肢を選んだのか??

 

私は今まで計5回程自殺行為を働いたことがあります。

元々の性格上パフォーマンスとしての生半可な自殺行為は大嫌いだったので、どれも本気でしたが「痛い」のが嫌いな性格なので大量服薬という方法で5回とも100錠以上のメンタル系の処方薬を服薬するというなんとも愚かな事を行っていました。

 

私が処方されていた薬はメンタル系のお薬の中でも割合と軽めのお薬だったので、今現在幸運なことに後遺症などもなく、生かせて頂いておりますが、当時は「死ねなかった!!」と目が覚めた時にパニック状態になり病室で暴れ回ってしまうこともありました。

 

本当に「死のう」と思う時。

その時のあくまでも、私の心理としては「誰かに気づいてもらいたくて頑張ってきたけど、気づいてもらえないみたいだ、もう力も尽きてきた。。」

と「自分の中の孤独感」に負けてしまって、孤独感も虚無感も、何も感じたくない。

という一心で、大量服薬をしてしまっていたように思います。

 

そう、本当はそういう行為をする人達は誰かに気づいてもらいたいのです。

でも、そこに来るまでにかなりのエネルギーを消耗してもう誰かに気づいて貰えるようにSOSを発することも出来ず、それでも生きている自分は日々何かしらの事柄でどんどん心も身体も蝕まれていくのが分かっていて、とにかく今の状況から抜け出したいけどもう「死」以外に方法はないのでは?というくらいに脳みその思考も停止してしまっているのです。

矛盾しているけど「消えてなくなりたいけど、誰かにそんな自分に気づいてもらいたかった」そんな気持ちを抱えて、電車に飛び込んでしまう人達の1部に「誰にも自分が苦しかったことを気づいてもらえなかったし、もう自分は確実に死にたい、でも最後くらいは「そんな人いたなー」と「たとえ迷惑をかけた嫌な人」であっても、自分の知り合いや、家族や、そしてなんの関係もない出勤途中や電車を利用している人達に最後のアピールをして、そして確実に亡くなる方法。

その選択肢のひとつとして「電車に飛び込む」という方法が浮かんできてしまうのではないかと、あくまでも私の中で理由の一つとして思い浮かんだことです。

 

本当に「死」を選んだ時

人は誰にも連絡をしません。

 

なるべく、バレないように。

なるべく、気づかれないように。

なるべく、確実に死ねるように。

 

そうやって、何かしらの方法で「自殺行為」を行う人の方が多く、誰かしらに行為の前に連絡をする人は「本気で死にたいわけではなく、そのくらい追い込まれている人」だという事です。

(本人は 死にたい と本気で思っている『つもり』ですが、誰かに死ぬ前に連絡をとっている時点で本当は死にたくないのです)

 

勿論、電車に飛び込む行為自体は決して良いことではなく、そして、きっとそうやって「死」を選んだ人にも家族や友人は居て、悲しむよりもその方が亡くなったことによって発生する負債や、対応に大わらわになり、「悲しい記憶」よりも「嫌な記憶」「嫌な人」として残された人たちへ印象が残ってしまうことでしょう。

 

それは、確かに彼らが望んだ「なんかしらのカタチで記憶に残りたい」という事柄は達成したとしても、結果的には彼らが本当に手に入れたかった「孤独感の消失」は亡くなっても尚、晴れることはありません。

 

死後の世界の事は私も勿論生きているので微塵も知りませんが、「迷惑をかけて死んだ人」を懐かしく思って悼み思い出してくれる人などこの世には存在しないのです。

 

電車に飛び込んだ時点で亡くなられた方の時間は止まりますが、遺された方々の時間は常に動き流れていく中で、1番最後のその方に関する記憶が「最低」なものであれば、健康な人間であれば「思い出す度に嫌な気分になる」「思い出したくもない」そんな存在になってしまい、思い出す必要も無く、日常は流れていくのです。

 

そして、もう1つ。

その方が電車に飛び込んで亡くなられた方の事によって、その方を大切に思われていた遺された人達の誰かしらに「孤独感」が引き継がれて、亡くなった方は自分の死と引き換えにご自身が死ぬ程苦しんだ「孤独感」を自分以外の「誰か」

もしかしたら、「自分の大切な人」に「自分の死」によって、孤独感の種を無意識に植え付けて亡くなってしまっている可能性があるという事です。

 

残念ながら、今現在この文章を電車に飛び込まれて亡くなられた方々に目にして頂くことは勿論出来ませんが、今、何かしらに悩み、苦しみ、もう頭の中に「死」しか思い浮かばなくなって「死んでしまえば全部楽になる」と思われている方が、この文章に綴られている事柄を全て読めない状況であっても、その周りにいる方や、いつか「死」の近くに居たけれど、今は少し浮上してきている方や、療養中の方、、等様々な方の目に触れてくれたら幸いです。

 

孤独感に苛まれ、消えてなくなりたいけど死ぬ時くらいスポットライトを浴びて、この世界に住む人々に認識されたかった。

 

そんな、心理から電車に飛び込んでしまう人が存在しているのかもしれない。

 

いつか、「死」にとても近くにいた私が今は「死」からとても遠い場所にいるからこそなんとなく理解出来たような気がする。

そんなお話でした。

 

長文お読み頂きありがとうございました。

 

おひとりでも「電車に飛び込む」という行為を選んで亡くなられる方が減るよう切に願っております。