あんこ と おはぎ

雑学的なことや日常の悲喜こもごもなど

鏡に写るは誰の顔

今年の春に、かなり仲良くしていたお友達と距離をおく事にした私です。

 

若干の共依存気味になっている感じになり、お友達の相談内容も一般的なお友達レベルを飛び越えて、彼女自身の生活の基盤がどうにかなるレベルの話になって来たので、私は「お友達」としての距離を保つ為に距離を置く事に決めたのでした。

 

その、最後の電話の時にお友達に言われた言葉がありました。

 

「貴女は、もっと賢くしたたかに生きたらいいのに、何でそれができないの?」

 

私を含め、そのお友達も余り人間関係に置いて「器用にやり過ごせる」タイプではなく、どちらかというとぶつかりあったりしつつも、深く関係を掘り下げていくか、全く興味を対象人物に持たず、挨拶だけで済ませるか。。というような、白と黒がハッキリしてしまうタイプの人間だったので「賢く、したたか」な人間は彼女自身の理想的な人間像だったのかもしれないのですが、私自身はそういうタイプが実は一番嫌いです(笑)

 

でも、現時点ではある程度「賢く、したたか」に関係を保っている人間関係も少なからず存在していて、その事実を自分で理解しておきながらも、その関係を壊すことの出来ない自分の事を私は大嫌いだったりします。

 

「賢く、したたか」な人間関係は、生活を送るという意味では必要かもしれませんが「人間の中身」を形成していく部分について「必要か?」と考えれば「私は不必要、もしくは著しく本人のメンタルに何らかの痛手を負う」と答えます。

 

多分、私が器用な人間であれば、そんな事気にも留めないで過ごせたのかもしれませんし、単に私が気にしすぎなのかもしれません。

多分に自身の性格がこの問題には関わってくるであろう事柄で、人によっては当然だと思う人もいる事でしょう。

 

しかし、私にその言葉を放ったお友達は、今の「賢く、したたか」な人間関係をある程度保っている私を見て、素敵だと思うのでしょうか?

私は、鏡に写るそんな自分の姿を見ても、全く素敵には思えません。

 

おそらく、彼女はそんな風に自分はなれないし、ならないからこそ、あの言葉を私に放ったのかもしれません。

 

彼女と私は今もお会いしていませんが、いつか、再会できた時に私が彼女に言えるのは「賢くしたたかに生きるのは辛いよ」という事だけです(笑)

我ながら纏まりのない文章で笑ってしまいますが。

いつか、彼女に再会出来た時、彼女の目に私はどんな風に写るのだろう。。

 

そんな疑問を持ちつつも。

秋の夜長を過ごす今日この頃でした。